番外:地獄のチェス大会、再び(4)
「ハロルド様が本当に希望するもの……」
なんだろう、とイチカは考えを巡らせた。
研究に関するものだろうか。
たとえば高価な研究道具が欲しいとか、自分が採血しに行かずとも研究用の血液が手に入るようにしたいとか。
後者の場合、研究所の隣に採血所を作り、バーキロット家の使いや今日チェス大会に招待された者、国に仕える騎士達が、袖捲りをしてそこに通うようなるかもしれない。変な光景だが、優勝者の希望なら仕方ない。
もしくは食事か。
彼は甘いものも辛いものも好んで食べる。普段から食事量は多く、暇があればお茶をし、デスクワークの合間にも間食をしているらしい。――それでいてスタイルは崩れないのだからずるい――
高価なレストランに行きたい、むしろ気にいったシェフをバーキロット家のお抱えにしたい。いや、研究所の隣に自分好みのレストランを建てる可能性もある。
「それとも……」
他にどんな希望があるだろうか、そんな事を考えながらイチカが話を続けようとするも、むにと唇を押された。
ハロルドの指だ。彼のしなやかな指が、イチカの唇をそれ以上は言わせまいと押さえている。それどころかむにむにと押してくる。
イチカが目を丸くさせれば、ハロルドがゆっくりと目を細めて笑った。
紫色の瞳。色濃く、宝石のように美しい。
「俺が望むものなんて決まってるだろ」
じっと見つめて告げられ、イチカは一瞬息を呑み……、彼の指が己の唇から離れると「私?」と呟いた。
ハロルドの笑みが強まった気がする。誘うような、蠱惑的な表情だ。
もしかして、彼は自分との結婚を希望するのだろうか。
現状、イチカとハロルドはいまだ婚約者という関係だ。
それも結婚を賭けた勝負の延長戦まっただ中で、相思相愛が判明したがお互いが勝ちを譲らずこの関係を続けている。
延長の理由の一つとして『もう少しお気楽ハッピーライフを楽しみたい』というハロルドの彼らしい言い分がある。もっとも、現状彼は魅了抑止の研究で自主的に自重した生活を送っているのだが。
そんな婚約を賭けた勝負を、このチェス大会の優勝賞品を利用して終止符を打つつもりだろうか。
彼が『イチカが負けを認め、お気楽ハッピーライフを容認して結婚する』と言い出せば、イチカは受け入れざるを得ない。――「そんな事で結婚を受け入れるのか」と言われそうなものだが、たかがチェス大会の優勝賞品、されどもチェス大会の優勝賞品。優勝者の希望は絶対だ。そもそも相思相愛なのだし――
「ハロルド様、もしかして……」
イチカが問おうとするも、それより先に、参加者達に話をしていたロクステンがハロルドを呼んだ。
「ハロルド、今回もお前が優勝だな。優れた息子を持って私は嬉しいよ」
「睡眠薬を……盛っといて、よく……いう……」
「それで、今回は何を希望するんだ?」
何でも言いなさい、とロクステンが穏やかに促す。
それに対してハロルドが恨みがましげな呻きをあげた。彼にもたれかかられているイチカは頭上から聞こえてくる恨みの呻きを聞きつつ、何を言い出すのかと待ち……、
彼の手にそっと頬を撫でられ、次いで抱きしめられた。
もたれかかっていたハロルドの重みは気付けばなくなり、その代わりに、ハロルドの腕が自分の身体をぐっと押さえる。
「ハロルド様?」
「俺の望みはただ一つ。イチカ……」
言いかけ、ハロルドが一度イチカへと視線を向けてきた。
嬉しそうに目を細める。愛おしいと言いたげな表情。
彼の形良い唇がゆっくりと開き……、
「お前の添い寝で寝たい」
はっきりとした彼の言葉に、イチカは一瞬間をあけた後、
「添い寝?」
と返した。
「そう、添い寝。お前が隣で……あ、もう自立限界……」
ハロルドの体からゆっくりと力が抜けていく。
イチカは慌てて彼の体を支え、自分へともたれかからせた。ぐったりと力を抜いて全身の重さを預けてくる。
「添い寝……。別に構いませんよ、子守歌もつけましょうか」
「……よろしく……、あとベッドに運んで……。おやすみぃ」
ハロルドがまどろんだ声で就寝の挨拶を告げてくる。次の瞬間、イチカにのしかかっていた彼の重さが増した。
どうやら完全に意識を手放したようだ。微かに鼾が聞こえる。
試しに「ハロルド様?」と名前を呼んでも返事はない。鼾交じりの返事さえもしてこないのだから、ついには完全に寝たのだろう。
一部始終を見ていたロクステンが何やら納得したように頷き、「イチカ、そういうことだ」と話し始めた。
「イチカの添い寝付きで寝たいらしい。というかもう寝てるけどな。イチカ、頼まれてくれるか?」
「優勝賞品ですからね」
それなら、とイチカが軽く手を振れば、もたれかかっていたハロルドの体がふわりと浮いた。魔法で浮かせたのだ。周囲から微かに「おぉ」と声が上がった。
そのまま彼を起こさないようふわふわと広間の出口へと向かう。
周囲もこれを見守り、中には「おやすみなさい」とイチカにまで告げてくるではないか。それらを受け、イチカもまた「おやすみなさい」と返して部屋を出て行った。
◆◆◆
そうして寝室に入り、ここまで浮かばせながら運んできたハロルドの体をそっとベッドに置いた。
二人分のベッド。一応中央には目に見えない境界線を引いてはいるが、最近は二人共あまり気にしていない。寝ているハロルドが無意識に境界線を越えて抱きしめてくる時もあるし、イチカも夜中にふと目が覚めると境界線を乗り越えて彼に寄り添って寝ていた時もある。
だいぶあやふやになった境界線をひとまず守りながらハロルドの隣に横になり……、ぐいと抱き寄せられた。
気付けば彼の腕の中、程よく鍛えられた腕がしっかりと体を捕らえている。半ば強引に抱き寄せられたため、彼の体に顔面ごとむぎゅとあたった。
「ハロルド様、起きてます?」
「ちょっとだけ起きてる……」
「今回も優勝賞品が『寝たい』なんて勿体ないですね」
もっと他に何か希望すれば良いのに。
そうイチカが彼の腕の中でぼやけば、触れている体が少し揺れた。
笑ったのだろうかと思い顔をあげれば、目を瞑ったままのハロルドが、眠そうに、それでも笑っている。
「言ったろ、俺が望むのは一つだけだ……」
「ハロルド様……」
「イチカが優勝するまで俺が王者の椅子を守っててやる。だからそれまで添い寝ぐらいは付き合ってくれよ」
なぁ、とハロルドが尋ねてくる。先程までの眠たそうな瞳が、今は誘うような濃い色合いを見せている。
それに対してイチカは返事をしようとし……、むにと再び唇をハロルドによって塞がれた。
今度は指では無く、彼の唇で。
焦点を合わせられないほど間近にハロルドの顔があり、イチカは一瞬目を丸くさせ……、キスをされたと理解するや目を閉じた。
触れていたハロルドの唇が一度離れ、もう一度むにと触れる。
親が子供にする就寝のキスよりも深く、それでいて、恋人達が愛と熱を交わし合うよりは些か軽く。
むにむにと数度キスを繰り返し、ハロルドの唇がゆっくりと離れていった。
もぞもぞと体勢を整え、イチカを抱き直し、ベストポジションを見つけて満足そうにふぅと一息吐く。
「おやすみぃ」という声は今日一番微睡んでおり、もうこれ以上の会話は無理だろう。
ならばとイチカもまた「おやすみなさい」と返し、彼の腕の中で眠りやすいよう体勢を整えた。
…end…
『地獄のチェス大会、再び』これにて完結です。
お付き合いいただきありがとうございました!
相変わらずな賑やかさでお送りいたしましたが、いかがでしたでしょうか?楽しんで頂けたら幸いです。
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