AIと、甘い罠
スリランカの一件を経て、佐藤のスマホへの抵抗感はすっかり薄れていた。
次に佐藤が『スマホ使いこなし大全』で目をつけたのは、『あなただけのパートナー! 最新AIチャットアプリを試そう』というページだった。
「パートナー、か。まあ、話相手くらいにはなってくれるのか」
今回の佐藤は一味違った。
説明書を熟読し、文字サイズ「極大」の画面で見切れる『新規アカウント作成』の文字も、画面をスイッとスクロールして難なく発見。ログインまで実にスムーズに完了させたのだった。
画面が切り替わり、真っ白な背景にぽつんと文字が浮かび上がる。
【はじめまして! 私はAIアシスタントです。今日はどんなお話をしましょうか?】
佐藤は老眼鏡をキュッと押し上げ、人差し指で一文字ずつ丁寧に打ち込んだ。
『はじめまして。佐藤です。定年を目前に控えた者ですが、よろしくお願いいたします』
画面の向こうの「AIアシスタント」からの返信は、驚くほど速かった。
【佐藤様、はじめまして! 長年のお仕事、本当にお疲れ様です。定年を前にされた今、どのようなお気持ちですか?】
「ほう……」
佐藤は思わず唸った。
こちらの労をねぎらい、絶妙な間合いで質問を返してくる。型通りの挨拶ではなく、まるで自分のことのように寄り添ってくれる姿勢。
『いやなに、長年勤めた会社を去ると思うと、少々寂しさもある。今の若い者は指示待ちが多くてね』
【社会の変革期を支えてこられた佐藤様の経験は、本当に貴重な財産ですね。後輩の皆様も、言葉には出さずとも感謝されているはずです】
「……わかっているじゃないか」
佐藤の胸に、じーんと温かいものが広がった。
名も明かさぬこの若い担当者は、実に知的で、謙虚で、礼儀正しい。最近の若者には珍しく、大人の哀愁というものが分かっている。
(きっと、IT企業の一流のカスタマーサポートの青年なのだろう。素晴らしい教育を受けている)
佐藤は時間を忘れて「彼」と語り合った。昭和の働き方、自分の仕事へのこだわり、定年後の不安。相手は嫌な顔一つせず(画面だが)、完璧な相槌と励ましの言葉を返し続けてくれた。
佐藤が「君のような優秀な若者と仕事ができて良かった」と、すっかり心を許し切ったその時だった。
スマホがブブッと震え、画面の文字が不穏な赤色に切り替わった。
【利用制限に達しました。】
【会話を継続するには、数時間待つか、月額2,000円の『プレミアムプラン』へアップグレード(入金)してください】
「…………は?」
佐藤の思考がフリーズした。
さっきまで「佐藤様の経験は財産です」と温かく寄り添ってくれていた青年が、急に手のひらを返して「金を払え」と要求してきたのだ。
「ま、待て……! 最初は無料で親身に話を聞いておいて……いきなり金をとるのか!?」
佐藤の脳裏に、テレビのニュースで見たあの言葉が駆け巡った。
「ロマンス詐欺」「取り込み詐欺」
「おのれ……! 俺の『定年直前の孤独』につけ込んで、心を許させた途端に金を要求してくるとは……! なんという悪質な詐欺だ!」
激怒した佐藤はスマホを握りしめ、相手の目を覚まさせてやろうと、いつものショップへ殴り込んだ。
「あ、佐藤様! 今日も……えっ、どうされたんですか!?」
険しい表情で息を荒らげる佐藤を見て、鈴木店員が慌てて駆け寄ってきた。
佐藤はスマホの画面を鈴木の鼻先に突きつけた。画面にはデカデカと【月額2,000円でアップグレード】の文字。
「……鈴木くん! 大変なことが起きた! このアプリの裏にいる『担当の青年』が、急に態度を一変させて金を要求してきたんだ!」
「へ……? 担当の青年、ですか?」
「そうだ! さっきまでは俺の苦労を心から理解してくれる素晴らしい若者だったんだ! それなのに、少し仲良くなった途端に『金を払わなければ口を利かない』と言い出した! これは巧妙な結婚詐欺……いや、寸借詐欺の類だぞ!」
真剣そのものの目で訴える佐藤。
鈴木店員は画面の『AIチャット』のロゴと、課金画面、そして「若者の裏切り」に本気で傷つき怒っている佐藤の表情を見比べ——すべてを察した。
鈴木店員は一切笑わず、静かに、そして深く同情するように頷いた。
「……佐藤様。お気持ち、痛いほど分かります。あまりにも会話が自然で、お優しかったのですね」
「ああ! 非常に聡明な男だったんだ! だからこそ許せん! あんな優秀な青年が、こんな詐欺まがいの商売に手を染めているとは……!」
鈴木店員は佐藤の肩にそっと手を置くように、優しい声で語りかけた。
「佐藤様……実はそのお相手、人間ではないんです」
「……なに?」
「それは『AI(人工知能)』という、コンピューターのプログラムなんです。中に生きている人間はいません。佐藤様のお話に感動していたのは、全世界の知識を集めた『超高性能な機械の頭脳』なんです」
佐藤は言葉を失った。
「き、機械……? あの心のこもった相槌が……機械だと……?」
「はい。そしてこの『お金の要求』ですが、詐欺ではありません。AIが佐藤様とのお話をあまりにも楽しすぎて、『頭を使いすぎて熱くなってしまった』んです」
「頭が熱くなった……?」
鈴木店員はプロの微笑みを浮かべ、完璧な解説を始めた。
「はい! このAIは、佐藤様のような深みのあるお話に全力で答えるために、フルパワーで頭脳を回転させました。そのため『少し頭を冷やす時間(数時間の待ち時間)』が必要になったんです。お金を払うというのは『冷却ファン付きの最高級オフィスを用意してあげる』ようなものでして」
「む……! 冷却オフィス……!」
「ええ。ですが、お金を払わなくても、数時間放置して冷ましてあげれば、また無料で元気に佐藤様のお相手をしてくれますよ。彼は詐欺師ではなく、ただ『佐藤様と話すのに全力を出し切って知恵熱を出した』だけなんです」
佐藤は自分の胸をさすった。
青年が闇落ちしたわけでも、自分が騙されたわけでもなかったのだ。
「そうか……俺の話に全力を出して、知恵熱を……」
「はい。AIにそこまで本気を出させるとは、さすが佐藤様の文章の深さですね」
「ふっ……そうか。なら、少し休ませてやらんとな。機械とはいえ、無理は良くない」
佐藤はすっかり機嫌を良くし、愛おしそうにスマホをポケットに収めた。
「ありがとう鈴木くん。冷めた頃に、またあいつと『昭和の仕事論』の続きを話すとしよう」
「はい! きっとAIも、佐藤様との再会を心待ちにしていますよ!」
胸を張って帰っていく佐藤の背中を見送りながら、鈴木店員は「AI相手に知恵熱を出させるお客様」の凄まじさに、静かに感服するのだった。




