記録と、忘れられた枝ぶり
投資編がひと段落した、ある休日の午後。佐藤は久しぶりに、何をするでもなく渡辺の書店をぶらついていた。
「シニア向けITコーナー」も、もうすっかり見慣れたものになっている。だが、ふと目に留まった一冊があった。
『スマホで楽しむ、わたしの盆栽記録』
「……む?」
パラパラとめくってみると、水やりや剪定のタイミングを記録し、写真とともに成長の過程を残せるアプリが紹介されていた。
「フン、盆栽の世話に、機械の手を借りるとはな」
そう鼻で笑いながらも、佐藤の指はページをめくる手を止められずにいた。三十年の間、記録といえば、頭の中の記憶と、時々つける手帳のメモだけだった。だが、あの黒松の若木を迎えた今、「もし記録が残っていたら」という思いが、ふと湧き上がってきたのだ。
「……渡辺さん、これをもらおう」
「あ、盆栽の記録アプリの本ですね! 素敵です」
「まあ、話の種に、少し試してみるだけだがね」
そう言いながらも、佐藤の足取りは、いつもよりどこか軽やかだった。
家に帰り、さっそくアプリをダウンロードする。画面には【新しい鉢を登録しましょう】の文字。
「よし……まずは、あの黒松からだな」
三十年間、記憶の中だけにあった枝ぶりの変化を、今さらながら形に残そうとする。佐藤の新しい挑戦が、静かに始まった。




