アカウントという名の壁
写真も動画も撮れるようになった。
だが、佐藤は自室の机で頭を抱えていた。
「……で、俺は何を撮ればいいんだ?」
四十年間、朝から晩まで会社と家を往復するだけの生活だった。趣味といえば週末に飲むビールと、たまに見るプロ野球くらいだ。いざ「自由になんでも撮影していい」と言われても、被写体が思い浮かばない。
「いかんな。宝の持ち腐れだ」
佐藤は再び『スマホ使いこなし大全』を開いた。
本には『人気のアプリをインストールして、世界と繋がりましょう!』と書かれており、おすすめのアプリ(SNSや動画共有サービス)が紹介されていた。
「よし、まずはこのアプリというやつを入れてみるか」
生真面目な佐藤は、本に書いてある通りにアプリをダウンロードした。画面上に新しいアイコンが並び、達成感が胸を満たす。
「よしよし、これで俺も現代人の仲間入りだな」
満面の笑みで、新しく入れたアプリのアイコンをタップした。
しかし、画面に現れた文字を見て、佐藤の顔から笑顔が消えた。
【 ログイン 】
【 メールアドレスを入力 】
【 パスワードを入力 】
【[ 次へ進む ] 】
「……ログイン?」
佐藤は首をかしげた。
メールアドレスとパスワードを入力しろと書いてある。しかし、佐藤はこのアプリを使うのが人生で初めてだ。パスワードなど設定した覚えもない。
「おかしいな……入会もしていないのに、なぜ合言葉を求められるんだ?」
とりあえず、昨日苦労して設定した自分の携帯メールアドレスを入力してみる。しかし、赤文字で『アカウントが存在しません』と弾かれた。
別のアプリを開いてみる。
やはり画面いっぱいに【ログイン】の巨大な文字。
「なんなんだこれは! アプリという奴らは、一回入ったことのある奴しか入れない仕組みになっているのか!? だったら最初の奴はどうやって入ったんだ!?」
文字サイズ「極大」のせいで、画面には『ログイン』の入力フォームと『次へ』のボタンしか収まっていない。その下にあるはずの、極小文字で書かれた**『※新規アカウント作成はこちら』**という文字は、完全に画面の外へと押し出されていた。
「新参者は拒絶するということか……現代のネット社会は、なんと冷酷なんだ……!」
佐藤は本をバタンと閉じ、三度目となるあの「聖地」へと向かった。
「あ、佐藤様! いつもありがとうございます!」
受付で佐藤を見つけるなり、鈴木店員が後光の差すような笑顔で駆け寄ってきた。
佐藤は深々とため息をつき、画面にデカデカと【ログイン】と表示されたスマホを差し出した。
「……鈴木くん。どうやら俺は、ネット社会の『一見さんお断り』の洗礼を受けてしまったようだ」
「一見さんお断り、ですか?」
「ああ。本にお勧めされていたアプリをいくつか入れたのだが……どれを開いても『ログインしろ』と要求される。会員制の高級クラブのようだ。俺のような新参者は、アカウントとやらをどこかで買わなければ入れない仕組みになっているのか?」
真剣な面持ちで訴える佐藤の言葉に、鈴木店員はハッと目を見開いた。
そして、佐藤のスマホの画面——画面の8割を占拠する巨大な『ログイン』の四文字と入力欄——を見て、すべてを理解した。
鈴木店員は静かに、しかし深く感心したように頷いた。
「……なるほど! 佐藤様、素晴らしい洞察力です。まさにその通りで、ネットの世界は『セキュリティ(防犯)』が非常に厳重なんです」
「やはりそうか! 昔の頑固な親父がやってる居酒屋みたいなものだな」
「ええ、非常に近いです! ただ……このアプリの店主は、実は『佐藤様のような特別なお客様』を大歓迎しているんです」
「なに? 俺を?」
鈴木店員は佐藤のスマホを受け取ると、画面をすっと下から上へスクロールさせた。
すると、巨大なログイン欄が画面外へ消え、下に隠れていた文字が現れた。
【新規登録(無料)はこちら】
「あ……!」
佐藤は思わず声を漏らした。
「このモードは文字が非常に見やすく設計されている反面、あまりの『情報量の多さ』に画面が収まりきらず、大切な案内が隠れてしまうことがあるんです。佐藤様が『セキュリティが厳しい』とお気づきになったのは、まさにネットの本質を捉えていらっしゃる証拠ですよ」
鈴木店員は優しく微笑みながら、画面を指し示した。
「ここをチョンと押していただければ、誰でも簡単に『自分の会員証』が作れるんです。店主も『待ってました!』とばかりにお迎えしてくれますよ」
「……隠れていただけ、だったのか」
「はい。佐藤様のお名前と、お好きなパスワードを決めるだけで、このアプリの扉はすべて開かれます」
鈴木店員のアシストのもと、佐藤は震える指先で初めての「アカウント」を作成した。
登録が完了した瞬間、画面がパッと切り替わり、カラフルな動画や写真の世界が広がった。
「おお……! 入れた……!」
「おめでとうございます、佐藤様! これで佐藤様も、このアプリの立派な『住人』です!」
鈴木店員に拍手を送られ、佐藤はくすぐったいような、誇らしいような気持ちで胸を張った。
「……ふっ、まあ、仕組みさえ分かれば大したことはないな。ありがとう、鈴木くん」
「いえいえ! また何かありましたら、いつでも『セキュリティチェック』にお越しくださいね」
ショップを出た佐藤は、スマホの画面を見つめた。
ついに「新しい世界」の扉は開かれた。
しかし、画面の中で無数に流れる動画や写真を見ながら、佐藤は再び思うのだった。
(入れたのはいいが……俺はここで、一体何を『発信』すればいいんだ……?)




