本には書かれていない心
「斎藤くん……助けてくれ……!」
いつもの威勢の良さはどこへやら、憔悴した顔でブースに滑り込む佐藤。斎藤はすぐに温かいお茶を差し出し、静かに話を聞いた。
「佐藤様、評価額のマイナスをご覧になったのですね」
「うむ……本を読んで『減ることもある』とは知っていたのだ! 覚悟もしていたつもりだった! だが……いざ自分の画面が赤くなると、まるで自分の資産に不吉な穴が空いたようで、恐ろしくてたまらんのだ……! 本の通りに心を平常に保つには、一体どうすればいいのだ!?」
斎藤は一切笑うことなく、佐藤の恐怖を真剣な受け止め方で頷いた。
「佐藤様。まず、知識として理解されていたこと自体が素晴らしいです。そして『実際に減ると恐ろしい』と感じるのは、人間としてごく自然で、正常な感情でございます」
「正常……なのか?」
「はい。本に書いてあるのは『理屈』です。ですが、お金を運用するのは『心』を持った人間でございます。どれほど勉強されたプロであっても、自分の資産が減れば胸が痛むものですよ」
斎藤の温かい言葉に、佐藤はほっと息を吐いた。
「斎藤くん……では、この恐怖とどう付き合えばいいのだ?」
「佐藤様、本には『潮の満ち引き』のことは書かれておりませんでしたか?」
「潮の……満ち引き……?」
「はい。価格が下がっている時というのは、実は『同じ金額で、より多くの量(口数)を安く買い集められている』状態なんです。引き潮の時に買い蓄えるからこそ、次に満潮が来た時に大きな花が咲きます。マイナスは損をしたのではなく『今は安くたくさん仕入れられている準備期間』だと捉えてみてください」
斎藤の見事な解説を聞き、佐藤は深く頷いた。
「そうか……本に書いてあった『長期保有』の本当の意味は、ただ耐えるのではなく『引き潮の時間を楽しむ』ということだったのか……!」
「まさにその通りでございます。本の知識に、佐藤様の体験と私の解説が加わって、初めて本当の『納得』になったのですね」
胸のつかえがすーっと下りた佐藤は、お茶を飲み干し、力強い目を取り戻した。
「ありがとう斎藤くん。本を読むだけではダメだな。こうしてプロと対話して初めて、知識が血肉になるのだな!」
知識としての理解と、実際の感情の揺れ。その橋渡しを斎藤にしてもらったことで、佐藤はまた一つ、本物の投資家へと階段を上ったのだった。




