知識と現実のあいだ
積立設定を終えた佐藤は、渡辺の店で買った『NISA入門』のページを何度も復習していた。
本には太字でこう書かれている。
『投資には価格変動リスクがあります。元本保証はなく、購入後に評価額がマイナスになることもあります』
「ふむ……元本保証はない、か。値下がりすることもあるというのは、頭では重々理解しているぞ」
慎重で生真面目な佐藤は、リスクについての知識もしっかり頭に叩き込んでいた。「俺はもう覚悟ができている」と、自信満々で数日を過ごした。
そして購入から五日目の朝。日課となったアプリの起動を行う。
【評価額:98,200円(-1,800円)】
佐藤の指がピタリと止まった。老眼鏡をかけ直し、極大表示された画面を穴があくほど見つめる。
「……マイナス、千八百円」
本で読んで知識としては知っていたはずだった。しかし、いざ自分の退職金から生まれた口座の数字が、血のような赤文字で「マイナス」と表示されているのを目の当たりにすると、胸の奥がキュッと締め付けられるような激しい動悸がした。
「知っていた……知っていたはずだ。だが……! 実際に自分の金が減るのを見るのは、こんなにも恐ろしいものなのか……!?」
本に書いてあった「慌てず長期保有しましょう」という一行を思い出そうとするが、画面の赤文字が気になって一分おきにアプリを開き直してしまう。
一時間後、画面を見ると【-2,100円】とさらにマイナスが広がっていた。
「だめだ……! 本の知識だけでは、この胸のバクバクが収まらん! 理屈では分かっていても、手が震えて何も手につかんぞ!」
頭での理解と、感情の動揺。そのギャップに耐えきれなくなった佐藤は、居ても立ってもいられず三井の店舗へ駆け込んだ。




