チャートの波と、慎重な男
無事に入金を済ませ、電磁金庫に資金を収めた佐藤だったが、すぐに買いボタンを押すような軽はずみな真似はしなかった。
「四十年、堅実に生きてきた俺だ。仕組みも分からず金を動かすなど、無謀の極み」
佐藤が向かったのは、いつもの書店のシニア向けコーナーだった。棚卸しをしていた渡辺が、すぐに佐藤の力強い足音に気づいて振り向いた。
「あ、佐藤様! 今日はどちらの本をお探しですか?」
佐藤は胸を張り、真剣な面持ちで老眼鏡の位置を正した。
「渡辺さん。電磁金庫の準備は整った。だが俺は慎重な男だ。いきなり買い注文など出さん。まずは『相場の見方』を完璧に構造理解したいのだよ」
渡辺はプロの笑みを浮かべ、深く頷いた。
「素晴らしいですね! 焦らずお勉強から入られるのは、本当に佐藤様らしい堅実さです」
渡辺が案内したのは『チャート(株価グラフ)の読み方』や『ローソク足入門』が並ぶ棚だった。佐藤はその中で一番分厚く、難しそうなグラフがびっしり描かれた本を手に取った。
「ふむ……この折れ線グラフや、赤と青の柱(ローソク足)は何を意味しているのだ?」
「これはですね、過去の値段がどう上がったか、下がったかを視覚的に表したものです。上がっているときは赤、下がっているときは青、といったように一目でわかるようになっているんですよ」
佐藤はページをめくり、真剣な眼差しで幾何学模様のようなグラフを見つめた。だが、その頭の中では激しい嵐が吹き荒れていた。
(な、なんだこの波は……! 上へ行ったと思ったら急降下し、また跳ね上がっている。まるで荒波の上の小舟じゃないか!)
生真面目な佐藤は、書かれている数字や線をすべて完璧に理解しようと試みた。
「渡辺さん……ということは、この山と谷をすべて予測して、一番低い谷で買い、一番高い山で売らねばならんということか?」
「ええと、理想はそうですが、プロでも完璧に当てるのは難しくて……」
「なんと! プロでも無理なのか! では俺のような素人がこの荒波に飛び込んだら、一瞬で木っ端微塵ではないか!」
慎重すぎるがゆえに、完璧な理解を目指せば目指すほど、佐藤は相場という巨大な化け物の前で身構えてしまうのだ。
「うむむ……理解が追いつかん。だが、知らんまま突撃するわけにはいかんからな。この本を読んで、まずはじっくり研究だ」
「はい! 焦らず佐藤様のペースで読んでみてくださいね」
結局、一番難しい解説本を抱えてレジへ向かう佐藤の後ろ姿を、渡辺は温かくも見守るのだった。




