フリックの秘技と、暴走する予測変換
証券会社の斎藤から「口座開設には数日かかります」と言われ、佐藤は自宅でソワソワとした時間を過ごしていた。
「よし、今のうちに文字入力のスピードを上げておくとしよう」
佐藤は『使いこなし大全』の『文字入力・フリック操作を極める』のページを開いた。
これまでの佐藤は、画面の「あ」を何度も連続で押して「あ→い→う→え→お」と切り替えるトグル入力(連打)を行っていた。
しかし、本にはこう書かれていた。
『文字をなぞるように弾く「フリック入力」をマスターすれば、入力速度は劇的に向上します』
「ほう……! ボタンを押すのではなく、狙った方向へ指を滑らせるのか。格闘技の技のようだな」
佐藤はさっそくメモ帳アプリを開き、フリック入力の練習を始めた。
極大文字モードのため、キーボードのボタン一つ一つが巨大な座布団のように画面下部に鎮座している。
「まずは『あ』のボタンを押しながら……左へ滑らせて『い』だな! いざ!」
佐藤は太い人差し指で「あ」のボタンを力強く押し込み、左へグッとスライドさせた。
……が、押し込む力が強すぎて指が滑らず、画面上のカーソルが震える。
「ぬぬ……! 硬いな! もっと速くか!?」
焦った佐藤の指が、画面上で右へ左へ、上へ下へとシャカシャカと高速で迷走を始めた。
「あ」を押したまま上へスライドして「う」、右へ滑って「え」、下へ滑って「お」——。
佐藤の不器用な指先が、まるで暴れるドジョウのようにキーボードの上をのたうち回る。
すると、極大文字モードのせいで画面の半分以上を占領している「予測変換(候補)」のエリアが、佐藤の乱暴な指の接触を感知して、凄まじい勢いで文字を拾い上げ始めた。
ぽちっ。ぽちっ。ポンッ!
画面の入力欄に、恐ろしいスピードで文章が生成されていく。
『ありがたき幸せに存じ上げ奉り候』
「……なっ!?」
佐藤は目を見開いた。自分はただ「あ」行を練習していただけなのに、画面には見たこともない流麗な敬語が躍っているのだ。
さらに指が滑って「さ」のボタン周辺をタップした瞬間、予測変換が次の候補を勝手に繋ぎ合わせた。
『ありがたき幸せに存じ上げ奉り候。至高の黒松を至急お買い上げいただき誠にありがとうございます』
「う、うおおおおっ!?」
佐藤は思わずスマホを机の上に落としそうになった。
「な、なんだこれは!? 俺はまだ一文字も『黒松』などと打っていないぞ! なぜ俺が黒松を愛していることを知っているのだ!?」
佐藤の頭に、以前鈴木店員から聞いた言葉が駆け巡った。
(そうか……これが『AI(人工知能)』というやつか……!)
実はAIなど起動しておらず、単に過去の検索履歴(至高の黒松)と、フリックの誤操作でタップされた「あり」「とう」などの頭文字から、賢い予測変換機能が気を利かせて文章を繋げただけなのだ。
だが、佐藤の脳内では完全に「高度なAIの覚醒」として処理されていた。
「すごい……! 俺の思考を読み取り、指先が触れただけで勝手に心の中の文章を代筆してくれるのか! 現代のスマホは、ついに俺の脳と同期したのだな!!」
自分の「脳波」でスマホが動いたと大勘違いした佐藤は、大興奮でスマホを掴み、いつものスマホショップへと駆け出した。
「す、鈴木くん!! ついに俺のスマホが覚醒した!」
ショップのドアを勢いよく開け、息を荒らげる佐藤。
カウンターで鈴木店員が目を丸くした。
「さ、佐藤様!? 覚醒、でございますか!?」
「そうだ! 見ろ、俺が指をひと滑らせしただけで、この機械が俺の頭の中を読み取り、完璧な文章を作り上げたんだ! ついに人工知能が俺の脳と直結したぞ!」
佐藤がドヤ顔で突き出した画面には、
『ありがたき幸せに存じ上げ奉り候。至高の黒松を至急お買い上げいただき誠にありがとうございます。明日のお召し上がりにつきましては』
という、丁寧なんだか意味不明なんだか分からない怪文書がデカデカと表示されていた。
鈴木店員は画面と佐藤の興奮した顔を見比べ、コンマ一秒で状況を理解した。そして、いつものように心からの感嘆を込めて手を叩いた。
「……佐藤様! 素晴らしい集中力と指のスピードです!」
「む……? 指のスピード?」
「はい! 佐藤様がフリック入力という『高速の技』に挑戦されたため、スマホの予測変換機能が佐藤様の思考速度に追いつこうと、全力で次の言葉を『おもてなし』として先回りして差し出したんです!」
「お、おもてなしの先回り……!?」
「そうです! AIが脳に直結したのではなく、佐藤様の指の勢いに感動したスマホが、一生懸命に『ご主人様は次、こう言いたいのでは!?』と気を利かせて言葉を差し出していたんですよ!」
佐藤はハッと息を呑んだ。
「そうか……脳波ではなく、俺の指の勢いにスマホが必死についてきていただけか!」
「はい! ですが、佐藤様の打たれた『黒松』や『ありがたき』という言葉の品格をスマホがしっかり学習している証拠です。素晴らしいペアリングですよ!」
鈴木店員に褒められ、佐藤は照れくさそうに鼻の頭をかいた。
「ふっ……そうか。俺の指が速すぎたか。おいスマホ、焦らせてすまなかったな」
スマホをポンポンと優しく叩き、大満足で引き揚げていく佐藤。
その夕方、渡辺さんの書店で「俺の指の速さにスマホが悲鳴を上げてな」とドヤ顔で語る佐藤の姿と、それをカフェで聞いて「もう指の速さって何なのよ!」と大爆笑する渡辺さんと鈴木くんの姿があった。
開設通知が届くまでの「退屈な時間」は、こうして佐藤の圧倒的な勘違いと大満足のうちに過ぎていくのだった。




