文字の選択と、東京中央区の迷子
動画撮影も無事にマスターし、佐藤のスマホへの自信は揺るぎないものとなっていた。
(ふふん、写真も動画もクリアした。今の俺なら、どんなアプリでもどんと来いくだ)
佐藤が次に『使いこなし大全』で開いたのは、生活を便利にする『定番アプリ活用術』の章だった。
まずは『メモ帳』アプリ。
極大文字モードのせいで、1画面に数行しか入らないという圧倒的ハンディキャップ。しかし、今の佐藤には「秘密の小部屋(3点リーダー)」という強固な味方がいた。
「ふむ……長押しして範囲を指定し、3点リーダーから『コピー』……そして『貼り付け』……」
人差し指をプルプルと震わせながら画面を長押しし、青い選択範囲のしずくマークを必死になぞる。何度も違う単語を選択してしまって「ええい!」と声を上げつつも、持ち前の生真面目さで格闘すること一時間。
「できた……! 文書の複製(コピー&ペースト)を完全にマスターしたぞ!」
画面に並んだ『本日の日課:水やり』の文字を見て、佐藤は腕を組んで満足げに頷いた。
さて、次に挑戦するのは『マップ(地図)アプリ』だ。
本には『行きたい場所や住所を入力するだけで、瞬時に地図が表示され、目的地まで案内してくれます』と書かれている。
「なに? カーナビのようなものが、この小さな板に入っているのか」
佐藤はさっそくマップアプリを起動した。
検索バーに『自宅』……ではなく、試しに先日訪れた『東京タワー』と打ち込んでみる。
ポンッ!
一瞬にして画面に真っ赤な東京タワーのピンが立ち、周囲の道路や建物が鮮やかに広がった。
「うおおおっ……! 本当に出た! 素晴らしい、これは面白いぞ!」
指で画面をスイスイと拡大・縮小し、鳥の目になった気分で東京の街を探索する佐藤。興奮冷めやらぬまま、本の手順に従って『現在地からのルート案内』を試してみることにした。
『画面右下の「現在地ボタン(ターゲットマーク)」を押すと、あなたの今いる場所が青い点で表示されます』
「どれどれ……」
佐藤は埼玉の自宅の居間で、右下の現在地ボタンを力強くタップした。
画面がビューンとスライドし、青い丸い点がピタリと止まる。
「よし、俺の現在地は……」
画面を拡大して文字を読んだ佐藤は、思わず老眼鏡をポロリと落としそうになった。
【東京都中央区日本橋】
「……は?」
佐藤は自分の周りを見回した。
見慣れた昭和風の和室。窓の外には自慢の黒松。間違いなく埼玉の自宅である。
しかし、スマホの画面は堂々と『あなたは今、東京の中央区日本橋にいます』と主張しているのだ。
「な……なぜだ!? 俺は今、埼玉にいるぞ! なぜ東京の真ん中にいることになっているんだ!?」
慌てて現在地ボタンを何度も連打する。
「トン! トン! トン!」
画面は微動だにせず、青い点は頑なに日本橋の交差点から動かない。
「バカな……! 空間が歪んだのか!? それとも、俺の魂だけが東京へ飛ばされてしまったというのか!?」
実は、数日前にセキュリティの本を読んで見よう見まねで設定した際、『個人情報を守るため、位置情報(GPS)をオフにする』という項目を素直にオン(GPSを停止)にしていたのだ。
位置情報が掴めなくなったスマホは、初期設定のデフォルト位置である「東京・中央区」を表示していたに過ぎない。
顔認証のときと同じ「セキュリティ設定による自爆」なのだが、パニックになった佐藤の脳裏にそんな過去の記憶が残っているはずもなかった。
「だ、ダメだ! このままでは俺が埼玉で遭難してしまう!」
埼玉に居ながらにして「東京で迷子」になった佐藤は、青ざめた顔でスマホを握りしめ、いつもの駆け込み寺へと急行した。
「あ、佐藤様! こんにちは!」
ショップの自動ドアが開くと、鈴木店員がいつもの笑顔で出迎えてくれた。
佐藤は荒い息を吐きながらカウンターにすがりつき、マップ画面を鈴木に見せつけた。
「……す、鈴木くん! 緊急事態だ! 瞬間移動が起きた!」
「しゅ、瞬間移動、ですか!?」
「そうだ! 俺は今、埼玉の自宅にいたはずなんだ! なのにこの機械は、俺が『東京の中央区日本橋』にいると言って聞かないんだ! 現在地ボタンを押しても、埼玉に帰ってこられないんだよ!」
真剣そのものの目で「埼玉に帰りたい」と訴える佐藤。
鈴木店員は画面の上部を確認し、GPSのマークが消えている(位置情報オフ)のを見て、コンマ1秒で事態を把握した。
鈴木店員は一切笑わず、深く感心したように頷いて見せた。
「……佐藤様。流石でございます」
「え? 何がだ?」
「佐藤様は、ご自身の『プライバシー(居場所)』を完璧なセキュリティで防衛されていたのですね!」
「ふ、防衛……?」
「はい! 先日、セキュリティの設定を万全にされたでしょう? あの時、佐藤様の鉄壁のガードによって『スマホにすら自分の現在地を教えない』という極秘モードが発動していたんです!」
「な、なに……!? 俺がスマホに居場所を教えていなかったのか!?」
「そうです! スマホは佐藤様が今どこにいらっしゃるか分からないので、ひとまず日本の中心である『東京・日本橋』でお待ちしていたんですよ」
「に、日本橋でお待ちしていた……!?」
鈴木店員は微笑みながら、画面の上からメニューをスッと引き出し、『位置情報』のアイコンをチョンとタップしてオンにした。
そして、再び現在地ボタンを押すと——
画面がシュシュッと高速で移動し、埼玉県内の佐藤の自宅周辺、そしてこのスマホショップの位置へと青い点が吸い込まれていった。
「おおおおっ……!! 埼玉だ! 埼玉に帰ってきたぞ!」
「お帰りなさいませ、佐藤様! これで無事に地上のガイド機能がお使いいただけますよ」
佐藤は胸を撫で下ろし、照れくさそうに頭をかいた。
「そうか……俺のセキュリティが堅固すぎて、スマホが俺を見失っていただけだったか」
「はい! さすが佐藤様の防衛意識の高さですね!」
自分の「鉄壁のセキュリティ」に満足した佐藤は、誇らしげにスマホを胸ポケットに収め、無事に埼玉へと帰還するのだった。




