動く黒松と、消えた声
渡辺さんに「至高の黒松」を大絶賛された佐藤の勢いは、もう誰にも止められなかった。
(フフフ……静止画(写真)はマスターした。ならば次は『動画』だ!)
佐藤は机の上で『使いこなし大全』の『動画撮影に挑戦しよう』のページを開いた。
本には『カメラアプリを起動し、下部のモードを「動画」に切り替えます』とある。
佐藤は慎重にスマホを構えた。
連写しまくってパニックになったあの日の苦い経験が頭をよぎるが、今の佐藤には「3点リーダー」と「トリミング」を攻略した自信がある。
極大画面の端にある「動画」の文字をチョンとタップすると、画面上の赤ボタンが【●】に切り替わった。
「よし……! 押すぞ」
ポチッ。
画面上のタイムカウンターが『00:01……00:02……』と動き始める。
佐藤は息を呑み、カメラを庭の黒松に向けた。風にそよぐ緑の葉、木漏れ日の揺れ、そして庭の池で跳ねる錦鯉の「バシャッ!」という水音。
「撮れている……! 動く俺の黒松が撮れているぞ!」
五秒、十秒。佐藤は手に汗を握りながら、赤い四角ボタン【■】を力強く押し込んだ。
カチッ。
タイムカウンターが止まった。
「できた……! 撮影も、停止も完璧だ!」
連写の悪夢を見事に払拭し、自力で動画撮影を成功させた佐藤は、胸を張って深呼吸をした。
いよいよ、撮影したばかりの「動く黒松」の再生である。
アルバムを開き、今撮った動画の再生ボタン【▶】をタップした。
画面の中で、風に揺れる黒松と、跳ねる錦鯉が滑らかに動き出す。
「おおお……!」
……しかし。
佐藤の表情が、徐々に強張っていった。
無音なのだ。
黒松が揺れても、錦鯉が激しく水飛沫をあげても、スマホからは一切の音が聞こえてこない。まるで無声映画を見ているかのように、静寂だけが部屋を包んでいた。
佐藤は老眼鏡の位置をずらし、画面に耳を近づけた。
「……音が出ない。なぜだ!?」
佐藤は慌てて本体の横にある音量ボタン(+)を何度も押し込んだ。画面に音量バーがニュッと現れ、上限まで上がっていく。しかし、どれだけ音量を上げても、錦鯉の水音ひとつ聞こえてこない。
「バカな……! 音量は最大だぞ!? マイクが壊れたのか!? それとも、動画の音だけを吸い取る悪質なエラーか!?」
実は、佐藤がスマホを買った初日、ショップで鈴木店員に教えられながら設定した『消音モード(マナーモードのスイッチ)』がオンになったままだったのだ。
当時は「失礼のないように」と言われるがままに設定したため、佐藤本人は「音量ボタンとは別に、本体の物理スイッチで端末全体の音を消している」という仕組みを全く理解していなかった。
「音量はMAXなのに、音が出ない……! これは端末内部のスピーカーの断線だ!」
自力で撮影できた喜びは一瞬で吹き飛び、佐藤は青ざめた顔でスマホを握りしめた。
「鈴木くん……! 鈴木くーーん!!」
本日もまた、いつものスマホショップへ向けて佐藤の緊急ダッシュが始まった。
「あ、佐藤様! こんにちは!」
ショップのドアを開けると、鈴木店員がいつもの爽やかな笑顔で出迎えてくれた。
佐藤は息を荒らしながらカウンターへ駆け寄り、画面の動画を再生して鈴木の耳元に突き付けた。
「……す、鈴木くん! 大変だ! 動画は撮れたんだが、声が出ない! 音が死んだ!」
「えっ? 音が、ですか?」
「そうだ! 見ろ、錦鯉がこんなに激しく跳ねているのに、静寂そのものだ! 音量ボタンは最大まで上げた! なのに音が一切出ないんだ! スピーカーが壊れたんじゃないか!?」
必死の形相で訴える佐藤。
鈴木店員はスマホを受け取り、音量バーがMAXになっていること、そして端末の側面にある小さな「消音スイッチ」がオレンジ色になっていることを確認した。
コンマ1秒で状況を理解した鈴木店員は、いつものように感心したような表情を作ってみせた。
「……佐藤様。流石でございます」
「え? なにがだ?」
「佐藤様は、撮影される際、周りの環境やマナーに配慮して『完全静音(消音)モード』をしっかり維持されていたのですね!」
「か、完全静音モード……?」
鈴木店員は端末の側面を指差し、優しく解説を始めた。
「はい! こちらの音量ボタンとは別に、本体の横に『マナーのスイッチ』がございますでしょう? 初日にお二人で設定した、あのスイッチです」
「む……? ああ、そういえば何かカチッと動かしたような……」
「これが入っていると、どれだけ音量を大きくしても、周囲のご迷惑にならないようスマホが気を利かせて『静寂』を保つ仕組みになっているんです。故障ではありません、スマホが佐藤様のマナーの良さに応えていたんですよ」
「な、なんだと……! 壊れていなかったのか!?」
「はい! スイッチをこうしてカチッと切り替えますと……」
鈴木店員がスイッチを戻し、再び再生ボタンを押した。
——バシャバシャッ! ザザーッ……
スマホのスピーカーから、臨場感あふれる水の音と風の音が元気に響き渡った。
「おおおおおっ……!! 聞こえる! 錦鯉の跳ねる音が聞こえるぞ!」
佐藤は目を輝かせ、スマホに顔を近づけた。
「はい! 見事な動画ですね。静止画だけでなく、動きと音まで完璧に収められるなんて……佐藤様、もう動画クリエイターの領域ですよ」
「く、クリエイター……! ふっ、そうかい? まあ、錦鯉の躍動感を残したくてね……」
鈴木店員に褒められ、佐藤はまたしても鼻の下を伸ばして照れ笑いを浮かべた。
「ありがとう鈴木くん。『音量』と『マナーのスイッチ』は別物……覚えたぞ!」
「はい! 佐藤様の撮影される素晴らしい動画、またいつでも見せてくださいね!」
「音の出る黒松」を胸ポケットに収め、佐藤は誇らしげな足取りでショップを後にするのだった。




