書店の渡辺さんと、至高の黒松
夕方の大型書店。シニア向けITコーナーの棚を整理していた渡辺は、遠くからこちらへ向かってくる足音に気づいた。
「あ……」
胸ポケットに手を当て、どこかソワソワとした足取りで歩いてくる男性。
昼間、分厚い『使いこなし大全』を「構造的に理解したいんだ」と少しイキり気味に買っていった、あの定年間近の客——佐藤だった。
(あら、あのお客さん……やっぱり難しくて聞きに来たのかしら?)
渡辺は「大丈夫ですよ」と優しく声をかける準備をし、エプロンを整えて笑顔で出迎えた。
「いらっしゃいませ。お客様、先ほどの『使いこなし大全』で何か分からないことでもございましたか?」
そう尋ねられた瞬間、佐藤は待ってましたとばかりに咳払いを「コホン!」とひとつ鳴らした。そして、あえて難しそうな顔を作りながら、胸ポケットからスマホを取り出した。
「いやね、渡辺さん。君のおかげで買ったこの本だが……なかなか『構造』がよくできているよ」
「えっ……あ、はい?」
「特にこの写真の編集機能だね。画面の『秘密の小部屋』を活用して、少しばかり手を加えてみたんだよ。まあ、君にこの本の成果を見せておこうと思ってね」
佐藤は鼻の頭に老眼鏡をキュッと乗せると、誇らしげにスマホの画面を渡辺に向けた。
そこに映し出されていたのは——
超高視認性モードのドデカい画面いっぱいに広がる、見事な枝ぶりの「黒松」。
その横には、金色の極太文字でデカデカと『至高』の二文字。
さらに、黒松の周りには色鮮やかな『ピンクや黄色のキラキラスタンプ』が、これでもかと散りばめられていた。
(ブッ……!!)
渡辺は思わず吹き出しそうになるのを、必死の思いで噛み殺した。
渋すぎる黒松と、金色の『至高』、そして乙女のようなキラキラスタンプのギャップ。シュールすぎて腹筋がよじれそうだ。
(な、なにこのセンス……! 可愛すぎるでしょこのおじさん!!)
心の中で大爆笑しつつも、渡辺はプロの書店員、そして一人の女性としての神対応を発動させた。
目を丸くして、心からの感嘆を込めて手を叩いた。
「まあ……っ! すごい! すごいですお客様!!」
「む……? そ、そうかい?」
思いのほか大きなリアクションに、佐藤の肩が跳ねた。
「この黒松の力強さも素晴らしいですけど、この金文字の『至高』! 力強い書体が盆栽の格調高さを引き立てていますよ! それにこのキラキラ……渋いお写真の中に華やかさがあって、すっごくセンスが良いです!」
「あ、いや……これはその、アプリのスタンプ機能を試しただけでね……」
「いいえ! 初めてでここまでトリミングと加工を使いこなせるなんて、本当にお見事です! 私、毎日スマホ本を売ってますけど、こんなに素敵に使いこなしてらっしゃる方、見たことないですよ!」
「見たこと……ない……?」
渡辺のストレートすぎる大絶賛の言葉の嵐に、佐藤の「プライドの鎧」が一瞬で粉砕された。
「……あ、いやぁ……そうかなぁ……? ふふ……」
佐藤の顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。
鼻の頭の老眼鏡がズレ落ちそうになるのも気にならず、ニヤけそうになる口元を必死に手で隠そうとするが、嬉しさが溢れ出てデレデレの笑顔になってしまっている。
「いやね、渡辺さん。背景の余計なものを削ぎ落とす『引き算の美学』というのかな? それを意識してみたんだよ……ふふっ」
さっきまでの難しそうな顔はどこへやら、佐藤は頭をポリポリと掻きながら、完全に照れまくっていた。
「素晴らしいです! 私、感動しちゃいました。この本をおすすめして、本当に良かったです!」
「うむ! 渡辺さんの目利きのおかげだよ! ありがとう!」
佐藤はもう照れくさくて溜まらなくなり、これ以上いたら顔が真っ赤なのがバレてしまうとばかりに、大急ぎでスマホをポケットに押し込んだ。
「じゃ、じゃあ私はいそが……じゃなくて、次の『構造の解析』に入らなければならないから! これで失礼するよ!」
「はい! またいつでも見せに来てくださいね!」
背後から渡辺さんの温かい声と笑顔に見送られ、佐藤は少し浮足立った足取りで本屋を後にした。
帰り道、夕暮れの街を歩きながら、佐藤は胸ポケットのスマホをそっと撫でた。
「……ふふ。『至高』か。……悪くないな」
顔の火照りが冷めないまま、佐藤はニヤニヤしながら、誰もいない夜道でスキップを踏みそうになるのを必死にこらえるのだった。




