本屋の渡辺と、いつものショップ 前編
覚醒した翌日、佐藤は気合を入れて大型書店へと向かった。
向かった先は「シニア向けIT・スマホコーナー」。
棚には『これならわかる! はじめてのスマホ』『70歳からのLINE&写真』といったタイトルの本がズラリと並んでいる。
(フン、70歳向けか。俺はまだ50代後半だぞ)
少々鼻で笑いつつも、一番厚くて解説が詳しそうな『これ一冊で完全攻略! 最新スマホ使いこなし大全』を手に取った。
「あの……お客様」
背後から控えめな声がした。振り返ると、エプロンをつけた真面目そうな書店員の渡辺が立っていた。胸のネームプレートには『渡辺』と書かれている。
「何かお探しですか? もしよろしければ、もっと文字が大きくて読みやすい『かんたん入門編』もございますが……」
渡辺は気を遣って、より初心者向けの薄い本を差し出そうとしてくれた。しかし、定年間近の佐藤のプライドがそれを許さない。
「あー、いや。ありがとう渡辺さん。だがね、私は基礎からシステム全体を構造的に理解したいタイプなんだ。だから、この一番網羅性の高い『使いこなし大全』で十分だよ」
渡辺書店員は、佐藤が必死にピントを合わせようとして目を細めているのを見逃さなかったが、そこはプロ。深く納得したように頷いた。
「左様でございますか! 失礼いたしました。たしかに構造から理解されるには、こちらの『大全』が最も適しておりますね。お目が高いです」
「うむ。これをもらおう」
佐藤は少し誇らしげにレジへ向かった。
自分の生真面目さが、近道ではなく「基礎からの網羅」を選ばせたのだ。
……だが、家に帰り、机の上に本を広げてからが本当の戦いだった。
老眼鏡を深くかけ直し、1ページ目から順に操作を試していくことにした。
「ふむ……まずは『ホーム画面の配置を変更してみましょう』か。どれどれ」
本の手順通りに、画面上のアイコンを長押ししてみる。
しかし、ここで最初の壁が立ちはだかった。
本に載っている見本の写真と、自分のスマホの画面がまったく違うのだ。
本の写真はアイコンが小さくスマートに整列しているが、佐藤のスマホは『超高視認性モード』のせいで、画面にアイコンが4つほどしか入らない。
「長押しすると……『編集モード』に入る……入らないぞ?」
指の乾燥のせいか、それとも押し方が強すぎるのか。画面がピクリとも動かないかと思えば、突然関係ないアプリが起動して大音量で「ポーン!」と通知音が鳴る。
「くそっ、なぜだ! 渡辺さんのおすすめを聞いておけば……いや、本にはこう書いてあるだろ!」
ページをめくり、別の操作(カメラのタイマー機能や、写真の保存)を試してみるも、やはり「本の画面」と「自分の巨大文字画面」のギャップにつまずき、どこをタップすればいいのか分からなくなってしまう。
格闘すること三時間。佐藤の手にはうっすらと汗が滲み、スマホの画面は指紋でドロドロになっていた。
「……ダメだ。本が間違っているのか、俺の端末が壊れているのか……」
佐藤は固く口を結び、スマホと本をカバンに押し込んだ。
向かう先は、ひとつしかなかった。




