第八話 想定外の「監査官」と届かない書類
大寒波という自然の地獄を無傷で乗り切り、ガルガルドの街が人間と魔族の垣根を越えて一つの家族のようになりつつあった、まさにその初春のことだった。
最悪の嵐は、自然の猛威ではなく、人間の形をした『悪意』となって、あまりにも唐突に上陸した。
夜明け前、新しく補強された強固な城壁の向こうから、複数の豪華な馬車と、それを護衛する重武装の王国直轄兵団が地鳴りのような足音を立てて進軍してきたのだ。その数は約三百。完全武装した騎士たちの鎧が、凍てつく朝日に冷酷にギラギラと反射している。
馬車から降りてきたのは、絹の外套を纏った肥満体の男――ナオトを「戦闘スキルがない無能」としてこの最果ての地に追放した張本人であり、本国の強欲な貴族の筆頭格、臨時の領地監査官だった。
「ふん……。骨も残さず死に絶えているかと思えば、随分と妙な真似をして生き長らえているようだな、大野直人」
監査官は、周囲を取り囲む人間と魔族が当たり前のように共存し、活気に満ちている光景を、虫唾が走る不愉快さといった様子で睨みつけた。そして、出迎えたナオトの足元へ、一枚の金縁の公式文書を容赦なく投げ捨てた。
「緊急の王命通達だ。本国中央において、お前が『魔族の残党を匿い、不穏な建造物(コンクリートの壁)を作り、王国の転覆を企てている反逆の疑い』が浮上した。よって、本日この瞬間をもって、ガルガルドの全権限を剥奪する。街に備蓄されたすべての食材、薪、そしてお前が開発したという新建材の技術データ、その一切の管轄権を本国監査委員会へと強制移管する!」
「……っ!? そんな、何ですかそれ……っ!?」
同行していたリーネが、血の気が引いた顔で悲鳴のような声を上げた。
ナオトが寝る間も惜しんで緻密に計算し、住民たちが血の滲むような思いで繋いできた命のライフラインとインフラ。それを、本国の貴族たちは言葉一つで丸ごと横取りし、貪り尽くそうというのだ。
「そんな理不尽な命令が通るわけがないでしょう! 私たちは、この最果てでただ生きるために――」
「黙れ、反逆者の足手まといが。不服があるならば、王都の最高裁判所へ正式な異議申し立て書類を提出するがいい。……もっとも、王都へ書類が届き、審議され、受理されるまでに最低でも『三ヶ月』はかかるがな。その間、この街の物資はすべて我々が厳重に『管理』させてもらう。……おい、騎士ども! 始めろ!」
監査官の冷酷な合図とともに、完全武装した王国兵たちが一斉に街へと踏み込んできた。
「ナオト、許可をくれ。今すぐこの傲慢な豚どもの首を撥ねて、城壁の肥やしにしてやる」
ナオトの背後で、マルタがこれまで見たこともないほど激しい殺気を放ち、大剣の柄に手をかけた。周囲にいたオークの戦士たちや、人間の難民の若者たちも、怒りに目を血走らせて武器を握り締め、今にも兵団へ襲いかからんばかりの緊迫感が走る。
「……ダメだ、マルタさん。止まるんだ。武器を収めてくれ」
ナオトは静かに、しかし引きちぎれそうなほどの痛みを堪えてマルタの手首を掴んだ。
「なぜ止める、ナオト! 目の前で私たちの家を、飯を奪われようとしているのだぞ!?」
「ここで本国の兵と戦えば、ガルガルドは名実ともに『反逆都市』となり、次は数千の王国の正規軍がこの街を包囲する。そうなれば、私たちがどれだけ防壁を作ろうと、住民たちは今度こそ一人残らず惨殺されるんだ……。だから、今は抵抗しちゃいけない……」
「クッ……! ああああああああっ!」
マルタは悔しさに歯噛みし、地面を叩き割らんばかりに踏み鳴らした。
戦闘力のない一人の元公務員として、システムそのものを悪用してくる冷酷な国家権力の前には、これまでの知恵も、生存の記録も、ただ無力に封じられるしかなかった。
——
そこからの光景は、ガルガルドの住民にとって、文字通りの『地獄の再来』だった。
本国の兵たちは、土足で住民たちの避難小屋へと押し入り、クローゼットや床下をひっくり返して、隠してあったわずかな食材まで徹底的に没収していった。昨日まで人間と魔族が笑顔で囲んでいた広場の一括管理倉庫には、本国の冷たい頑丈な錠前がいくつもかけられ、厳重な警備兵が配置された。
さらに、ナオトが【製図】スキルで書き上げ、職人たちと共有していたコンクリートの調合書や、型紙の設計図、温泉泥の洗濯ラインの記録に至るまで、すべての書類が監査官の部下たちによって一枚残らず力ずくで強奪されていった。
「返して……! それはナオト様が、みんなのために一生懸命書いた書類なのに……!」
抵抗しようとしたリーネは、容赦なく騎士の盾で突き飛ばされ、冷たい泥水の中に叩きつけられた。
「リーネ!」
ナオトが駆け寄り、泥まみれになった彼女を抱き起こす。リーネの膝からは血が流れ、その手には破られた計画書の端切れだけが虚しく握られていた。
さらに最悪なのは、監査官が持ち込んできた本国式の「理不尽な恐怖政治」だった。
彼らは人間と魔族が共存していること自体を罪と断じ、見せしめとして、昨日まで一緒に壁を作っていたオークの戦士たちを鞭で激しく打ち据えた。
「おい、人間ども。貴様らがこんな化け物どもと馴れ合っているから、本国から目をつけられたのだ」
本国の兵たちが、難民たちに冷酷に囁く。
その言葉は、じわじわと街の結束を毒のように蝕んでいった。
昨日まで同じ火を囲んでいた人間と魔族の間に、再び「あいつらが魔族だからこんな目に」「やっぱり人間が本国を引き入れたんじゃないか」という、かつて以上の深い猜疑心と不信感の暗雲が立ち込め始める。せっかくナオトが繋ぎ止めた心の絆が、権力という巨大な暴力の前で、いとも簡単にバラバラに引き裂かれていく。
——
その日の深夜。領主館の執務室は、まるで墓場のような静寂に包まれていた。
机の上には、本国から突きつけられた莫大な『管理費』と『反逆猶予税』という名の、到底払えるわけのない理不尽な請求書だけが虚しく積み上がっている。
「お兄ちゃん……クロエ、お腹すいたよぉ……。あいつら、クロエが森から命がけで捕まえてきたお肉も、ふかふかの毛皮も、全部持っていっちゃったの……」
部屋の隅で、クロエが元なく犬耳を完全に伏せ、お腹をさすりながら力なく座り込んでいた。いつも元気だった彼女の瞳からは、完全に生気が失われていた。
リーネも、悔しさと己の無力感から、膝を抱えてボロ布のように震えながら、声を殺して涙をボロボロと流し続けている。
「悔しい……。ナオト様があんなに頑張って、みんなを救ったのに……。どうして、何もしていないあの人たちに、全部、全部奪われなきゃいけないの……!」
マルタもまた、自身の部下たちが目の前で痛めつけられても動かせなかったもどかしさと、かつての魔王軍の敗戦のトラウマが蘇り、壁に頭を押し付けたまま、拳を血がにじるほど硬く握りしめて震えていた。
全員が完全に絶望し、打ちのめされ、静まり返る部屋。
ナオトは一人、何もなくなった空っぽの執務机に両手をついたまま、じっと泥のついた床を見つめていた。
前世の地方自治でも、そうだった。
どんなに現場の職員が地域のために汗を流し、住民のために新しいプロジェクトを積み上げてきても、理不尽な国の方針や、権力者の一言によって、すべてが白紙に戻され、予算を削られ、住民から裏切られることがあった。あの時も、自分はただ無力に、組織の歯車として従うしかなかった。
(異世界に来て、領主になってもなお……僕は、ただの戦えない無能文官のままなのか。僕のやってきたことは、すべて無駄だったのか……)
かつてないほど深く、底の底まで叩き落とされるような絶望と挫折感が、ナオトの心を暗黒の泥のように支配していく。彼が築き上げてきた理想郷は、わずか一日で、完膚なきまでに破壊されてしまったのだ。
――だが。
ナオトの脳裏に、泥の中に倒れながらも書類を守ろうとしたリーネの姿、耐え抜いたマルタの横顔、お腹を空かせたクロエの涙が、鮮烈にフラッシュバックした。
(……いや。前世の僕は一人だった。だけど、今の僕には、命をかけて一緒に戦ってくれた仲間たちがいる。この最果てで、僕を信じてくれた千人の住民がいる。ここで僕が完全に折れたら、彼らは本当に死ぬ。死なせてたまるか……!)
ナオトの瞳の奥で、消えかけていた炎が、青く、冷徹な怒りとなって再び爆発的に燃え上がった。
彼は、没収を免れていた胸ポケットの中の、古びた小さな私的手帳をゆっくりと取り出した。
そこには、監査官たちが奪いきれなかった、ナオト自身の【材質鑑定】と【測量】によってのみ記録された、この街の「本当の資産データ」――裏山の温泉泥の正確な化学成分、隠された地下水路の正確な立体ルート、そして本国の強欲な貴族たちがまだ絶対に気づいていない、この街独自の『重大な経済的バグ』が、すべて数字として克明に残されていた。
「……リーネ、マルタさん、クロエ。みんな、ちょっと顔を上げてくれないか」
ナオトの地を這うような、しかし驚くほど冷徹で力強い声に、三人の少女たちがハッとして涙を拭い、顔を上げた。
ナオトの顔から、絶望の影は完全に消え去っていた。代わりに浮かんでいたのは、前世で数々の悪質なクレーマーや、理不尽な上層部の圧力を合法的かつ冷酷に叩き潰してきた時の――最高に不敵で、悪魔的な「あの文官の笑顔」だった。
「ナオト……? お前、まだ諦めていないのか? この状況から、一体何ができるというのだ……」
マルタが信じられないといった様子で、震える声で尋ねる。
「正面から本国のルールに従って書類を提出しても、彼らは握りつぶすだけだ。だったら――彼ら自身の作った法律を使って、あいつらを合法的に破滅させてやればいい」
ナオトは手帳を開き、インクをたっぷりとつけた羽ペンを握った。
「監査官たちは、目に見えるコンクリートの技術や食材にしか目を向けていない。でも、彼らが持ち込んできた本国の古い『商法』と、この街の『特殊な立地条件』の間には、国家を揺るがすレベルの致命的な矛盾が、最初から存在するんだ。……リーネ、泣いている暇はないよ。本国の古い租税令の記録を、明日から隠密裏にすべて集め直すんだ。マルタさん、本国の警備兵たちの『正確な交代時間と動線』を僕に全部教えてくれ。クロエ、明日から夜の森を使って、ある『極秘の物資』を運んでもらう」
ナオトの瞳が、かつてないほど鋭く、獣のようにギラギラと輝く。
「手続きという名の暴力で僕たちを縛るなら、僕は現代の『経済理論』と『官僚機構の脆弱性』をフル活用して、あいつらの足元を根こそぎ爆破してやる。奪われたものは、百倍にして返してもらうよ。……ただで引き下がるほど、日本の地方公務員の執念は甘くないからね」
最大の挫折の果てに、元公務員の真の知恵が、いよいよ国家という巨大な悪意そのものを欺き、破滅させるための『最凶の内政反撃プラン』を紡ぎ始めようとしていた。
次回、最果ての文官による、容赦なき合法の復讐劇が幕を開ける――。
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