第七話 大寒波の到来と、初めての「家庭訪問」
ガルガルドの冬支度が完了してから数日後。ついに、その瞬間はやってきた。
夜明け前、街を包んだのは不気味なほどの静寂だった。いつもなら朝の狩りへ向かうクロエの足音や、見回りを始める魔族たちの低い話し声が聞こえる時間だが、外からは一切の音が消え失せていた。
ナオトが領主館の窓を開けると、凍てつくような白い息が室内に一気に流れ込んでくる。
「……来たな」
視界の先、裏山の向こうから、地鳴りのような音を立てて真っ白な壁が迫っていた。数十年に一度と言われる大寒波――『牙を剥く冬』の襲来だった。
猛烈な突風が街に吹き荒れ、崩れかけていた古い木造の家々がミシミシと悲鳴を上げる。だが、ナオトの表情に焦りはなかった。すぐに【測量】と【材質鑑定】のスキルを街全体に向けて発動する。
『城壁の凍結耐性:98%。破損なし。即席コンクリートは突風の圧力を完全に分散している。簡易住居の防寒コートおよび防寒壁の機能:正常に作動中』
「よし。インフラは持ちこたえているね」
ナオトは手帳に素早く状況を書き込み、羽ペンを置いた。
前世の役所時代、大型台風や豪雪の災害対策本部で幾度となく経験した「危機の初動対応」。最も重要なのは、現場の状況をこの目で確かめ、住民たちに「領主が把握している」という安心感を与えることだ。お役所言葉で言えば、迅速な『現地視察』と『状況確認』である。
「ナオト様! 起きられましたか!?」
バタバタと慌ただしい足音とともに、リーネが執務室に駆け込んできた。
彼女の体には、数日前にみんなで作った純白の毛皮付き防寒コートがしっかりと羽織られている。寒さで鼻の頭を少し赤くしながらも、その瞳にはかつてのような絶望はなかった。
「おはよう、リーネ。外はすごい吹雪だけど、コートの着心地はどうだい?」
「はい! びっくりするくらい暖かいです! 風を全然通さないので、外を歩いても全然寒くありません。……でも、街のみんなが心配で。人間の難民たちの避難小屋、ちゃんと風を防げているか見てまわりたいんです」
「そうだね。僕も今から街の『家庭訪問』に行こうと思っていたところさ。マルタさんとクロエも呼んで、班に分かれて全戸の安全確認をしよう」
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ナオトとリーネ、そして合流したマルタとクロエは、猛吹雪が吹き荒れるガルガルドの街へと繰り出した。
外は、視界が数メートル先も見えなくなるほどのホワイトアウト状態だ。かつてのガルガルドであれば、この時点で数十人の凍死者が出ていてもおかしくない地獄の環境だった。
「お兄ちゃん、クロエの鼻が冷たいよー!」
クロエが防寒コートのフードから犬耳だけを覗かせ、ナオトの腕にギュッと抱きついてくる。
「よく頑張って歩いてくれたね、クロエ。ほら、最初の避難小屋に着いたよ」
ナオトたちが訪れたのは、人間の難民たちが身を寄せる、古い石造りの集合住宅だった。
かつては窓枠が外れ、隙間風が容赦なく吹き込んでいた建物だ。しかし今、その窓にはオークたちが切り出してきた厚手の木板が頑丈に打ち付けられ、隙間にはナオトの指示で温泉泥と灰を練り合わせた「防寒パテ」がびっしりと詰め込まれていた。
扉をノックし、中に入ると――そこには、外の地獄が嘘のような、穏やかな空間が広がっていた。
「あ、領主様……!? こんな吹雪の中を、わざわざ……」
部屋の中にいた難民の老人や子供たちが、驚いて立ち上がる。
部屋の中央には、旧魔王軍の軍用大鍋を小さく改造した即席の薪ストーブが置かれ、パチパチと心地よい音を立てて火が燃えていた。効率的に熱を循環させるための排気管は、ナオトが【製図】スキルで設計したものだ。
「皆さん、座ったままで大丈夫ですよ」
ナオトは一人一人の顔を見つめ、完璧な公務員スマイルを浮かべた。
「部屋の温度はどうですか? 寒くて眠れない人はいませんか?」
「いません、いませんとも! 領主様が作ってくれたこの壁とストーブのおかげで、部屋の中は春みたいに暖かいです。それに、この防寒毛布……本当にふかふかで、子供たちも朝までぐっすり眠れました」
老人が、ナオトから支給されたウール毛布を撫でながら、何度も頭を下げる。
ナオトは【材質鑑定】で室内の空気循環と温度を確認した。
『室内温度:18度。換気状態:良好。一酸化炭素中毒の危険性:ゼロ』
「よかった。薪の在庫はあと一週間分あるね。減ってきたら、また配給制で広場からオークたちが運ぶから、遠慮なく使ってほしい。リーネ、体調の悪そうな人はいそうかい?」
「はい、ナオト様! みんな顔色もいいし、風邪をひいている人もいません!」
リーネが手帳にテキパキと住民の状況を記録していく。彼女の現場管理能力は、日を追うごとに洗練されていた。
「よし、次の区画へ行こう。次は魔族たちの住居エリアだ」
——
続いてナオトたちが向かったのは、街の西側、魔族の残党たちが集まる大型の地下兵舎だった。
地下は風が防げる反面、地熱の冷え込みが厳しく、湿気が溜まりやすいという弱点があった。
重い鉄の扉を開けて中に入ると、そこでは数十頭のオークやトロール、そして耳の尖った魔族たちが、一つの巨大な即席ストーブを囲んで車座になっていた。
「マルタ様! それに……人間の領主殿か!?」
大柄なオークの戦士が、驚いて立ち上がる。彼らの肩には、人間の仕立て職人たちが軍用天幕から作り直した、超大型の防寒マントがしっかりと掛けられていた。
「我が同胞たちよ、変わりはないか」
マルタが凛とした声で問いかける。
「ははっ、マルタ様! 驚くほど快適です! 地下の冷え込みを心配していましたが、領主殿の指示で床に敷き詰めたあの『灰の断熱材』のおかげで、地面からの冷気がまったく上がってきません。それに、このマント……本当に頑丈で暖かい。人間の針仕事というのも、大したものですな」
オークが自身のマントの綺麗な縫い目を指でなぞりながら、嬉しそうに笑った。
ナオトは床に目を向けた。コンクリートを練る際に出た灰と乾燥させた藁を敷き詰めた簡易断熱床だ。これがあるだけで、体感温度は5度以上変わる。
「領主殿、あんたが炊き出しの時に言っていた『適材適所』の意味が、ようやく本当に分かったよ」
魔族の戦士の一人が、ナオトに向かって深く頭を下げた。
「俺たちの力だけでは、この地下を温める知恵はなかった。人間の職人たちの技術がなければ、このマントもなかった。……俺たちを救ってくれて、本当に感謝する」
「いや、僕の立てた計画通りに、皆さんが全力で動いてくれたおかげだよ。素晴らしいチームワークだ」
ナオトが微笑むと、魔族たちの間から、ドッと温かい笑い声が上がった。昨日まで人間を「ひ弱な存在」と見下していた荒くれ者たちが、今や一人の文官の頭脳に対して、心からの敬意を払っていた。
「クンクン……あ、お兄ちゃん! 兵舎の奥のほうから、なんだかすっごく良い匂いがしてくるの!」
ナオトの服を引っ張るクロエ。彼女の犬耳がピクピクと動いている。
「おや、これは……」
マルタが奥の調理場に目を向けると、そこでは魔族の女性と、リーネが手配した人間の難民の女性が、二人で並んで巨大な鍋をかき混ぜていた。
「あ、領主様! マルタ様も!」
人間の女性が気づいて、笑顔で手を振る。
「何を作っているのだ?」マルタが尋ねる。
「はい! 領主様に教えていただいた、昨日のスパイススープのレシピを真似して、お肉と根菜を煮込んでいるんです。魔族の皆さんが、地下の貯蔵庫から少しだけ残っていた珍しい香草を出してくれて、それを加えたら、さらに美味しくなりそうで!」
魔族の女性も、嬉しそうに頷いた。
「人間の彼女の、包丁の使い方は見事だ。私たちがいつも大雑把に切っていた根菜を、均一な大きさにしてくれたから、火の通りが早くて助かるよ」
そこには、種族の壁を超えて「美味しい食事」を共に作ろうとする、温かい日常の風景があった。
ナオトの蒔いた「合同炊き出し」の種は、すでに彼の指示を離れた場所でも、住民たちの手によってしっかりと芽吹いていたのだ。
——
すべての住居の安全確認を終え、ナオトたちが領主館に戻る頃には、夜の帳が下りていた。
外の吹雪はさらに激しさを増し、窓ガラスをガタガタと激しく叩いているが、領主館の執務室の中は、暖炉の火によって信じられないほど暖かかった。
「ふぅ……。全戸の巡回、完了だね。全員の無事が確認できて本当によかった」
ナオトは椅子に深く腰掛け、手帳のすべての項目に「完了」のチェックを入れた。
大寒波の初日。凍死者、ゼロ。負傷者、ゼロ。
異世界の歴史上、元魔王領の冬を、これほど完璧な無傷で迎えた都市はどこにも存在しないだろう。
「ナオト、本当にお疲れ様。お前のおかげで、私の同胞たちは誰一人として凍えることなく、温かい夜を迎えている」
マルタが温かいハーブティーが入ったカップをナオトの前に置いた。彼女の表情には、これまでの張り詰めた緊張感はなく、深い安堵と、ナオトへの惜しみない親愛の情が浮かんでいた。
「ナオト様、本当に、本当にすごいです……!」
リーネがナオトの隣に駆け寄り、その手を両手でぎゅっと握りしめた。
「王都の偉い人たちは、ナオト様を『無能』だって言ってここに追い払ったけれど……あの人たちに、今のガルガルドを見せてやりたいです! 誰よりも素晴らしい領主様だって、私が大声で自慢して回りたいくらいです!」
「お兄ちゃん、クロエもお兄ちゃんのこと、だーいすき!」
クロエがナオトの膝の上に潜り込んできて、ふさふさの尻尾を彼の顔にパタパタと打ち付ける。
「これからもずーっと、クロエにおいしいご飯食べさせてね!」
人間、魔族、獣人。
それぞれの種族の美少女たちに囲まれながら、ナオトは窓の外の白い闇を見つめた。
前世の役所で、孤独に書類の山と戦っていた頃には、決して得られなかった温もりが、今の彼の手の中にはあった。
「みんな、ありがとう。でも、冬を越すのは、この街を発展させるための『前提条件』に過ぎないからね」
ナオトは手帳を閉じ、不敵な笑みを浮かべた。
「この地獄の冬を無傷で乗り越えたら、次はこの街独自の産業――さっきの温泉泥を使った新しい陶器や、クロエの捕まえてくる毛皮の加工品を特産品にして、本国と対等に渡り合える商業都市を作るんだ。僕たちのタウンマネジメント(残業)は、これから春に向けて、もっともっと面白くなるよ」
ナオトの言葉に、少女たちは顔を見合わせ、これからの未来に胸を弾ませながら、最高の笑顔で頷くのだった。
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