第十話 最果て経済特区の夜明けと「春の予算編成」
本国から送り込まれた強欲な臨時領地監査官を、法律の網(法網)と現代の経済理論で完膚なきまでに叩き潰してから、数日。
ガルガルドの街に、今度こそ本当の「春の気配」が訪れようとしていた。
数十年に一度と言われた大寒波『牙を剥く冬』の猛威は、ナオトが主導した即席コンクリートの防寒壁と、軍用天幕を再生したウールコート、そして人間と魔族が協力して整備した効率的な薪ストーブの前に、ついにその牙を折られた。
街の周囲を囲む雪解けの山々からは、絶え間なく清らかな雪解け水が川へと流れ込み、凍りついていた大地が少しずつ、本来の黒々とした土の色を取り戻し始めている。
「よし、全員揃っているね。それじゃあ、これより『ガルガルド第1期・新年度予算編成会議』を始める」
領主館の執務室。ナオトの少し引き締まった声が、部屋の中に響いた。
かつては何もなかった木箱の机の上には、今や本国の監査官から合法的かつ冷酷に毟り取った「金貨三千枚」という莫大な予算を示す預金証書と、整然と分類された書類の山が築かれている。
ナオトの正面には、この街の最高幹部となった三人の少女たちが座っていた。
黒髪を端正にまとめ、防寒コートを脱いで元の洗練された軍服姿に戻った魔族の美女、マルタ。
手帳と羽ペンを構え、新調されたエプロンドレスに身を包んだ人間の少女、リーネ。
そして、ナオトの椅子のすぐ真横に張り付き、ふさふさの茶色い尻尾を退屈そうに、しかし上機嫌でパタパタと揺らしている獣人のクロエだ。
「ナオト、まずは私の部下たち――オークや魔族の戦士たちの動向について報告する」
マルタが鋭い視線を書類に落としながら、凛とした声で話し始めた。
「今回の本国監査官との一件で、同胞たちは完全に目を覚ました。人間がどれほど姑息な手続きを使い、どれほど自分たちを縛り付けようとしていたか……そして、それを上回る『お前という人間の知恵』が、どれほど頼りになるかをな。今や我が部下たちの中に、お前の命令に不満を抱く者は一人もいない。むしろ、次の『残業』はまだかと、全員が腕をぶるぶらせている状態だ」
「それは頼もしいね、マルタさん。力仕事のタスクはこれから山ほどあるからね」
ナオトが苦笑いしながら頷くと、隣のリーネが我が意を得たりとばかりに手を挙げた。
「ナオト様! 人間の難民たちも同じです! 本国の騎士たちに突き飛ばされた私を、ナオト様が身を挺して守ってくださったこと、みんなしっかりと見ていました。それに、あの冷酷な監査官が青ざめてサインをする姿を見て、みんな『この領主様についていけば、絶対に間違いない』って確信しています。今朝も、農業の再開に向けた開墾作業の志願者が、予定の三倍も集まりました!」
「ありがとう、リーネ。君が住民たちのメンタルケアを完璧にこなしてくれたおかげだ。それじゃあ、今回の会議の本題に入ろう。手に入れた金貨三千枚――これをどう『分配』し、どう『投資』するかだ」
ナオトは【製図】スキルで壁に貼り出した、巨大な街の将来設計図を指し示した。
「私たちは冬を越した。つまり、第一段階の『生存ミッション』はクリアだ。ここからは第二段階、ガルガルドを本国から経済的に独立させるための『開拓・産業育成フェーズ』へと移行する。ただの最果ての流刑地から、本国が喉から手が出るほど欲しがる【経済特区】へ、この街を作り変えるんだ」
「け、経済特区……? またナオト様の不思議なお役所言葉が出ましたね」
リーネが目を丸くしながら、一文字も漏らさぬよう手帳にペンを走らせる。
「簡単に言えば、本国の面倒な関税や法律を一切無視して、自分たちのルールで世界一稼げる商売の街を作るってことさ。そのために、まずは三つの大きなプロジェクトに、この予算を一一に一括投入する」
——
ナオトが提示した第一のプロジェクトは、『ガルガルド温泉泥陶器の開発』だった。
数日前、軍用天幕を洗うために使用した、東側の渓谷に湧き出る強いアルカリ性の温泉泥。ナオトはこれをただの洗剤として終わらせるつもりは毛頭なかった。【材質鑑定】によって、その泥の中に含まれる特定の鉱物成分が、独自の美しい光沢と、魔法の術式を極めて安定して定着させる「魔導伝導率」を持っていることを見抜いていたのだ。
「マルタさん、温泉泥の採取ポイントの周辺に、正式な『採掘場』と『精錬所』を建設する。ここには予算から金貨八百枚を計上して、オークたちのための最新の採掘ツールを大量に買い付けるよ」
「なるほど、あの泥を焼き物にするのか。……確かに、あの泥を捏ねて火を通すと、驚くほど軽くて頑丈な石のようになると職人が言っていたな。それに魔法の術式が定着しやすいとなれば、本国の魔術師ギルドが狂喜乱舞して買いにくるぞ」
「その通り。これはこの街独自の『高付加価値ギルド製品』になる。人間の陶芸職人と、魔族の魔線描き(魔術回路を刻む職人)をペアにして、新しい生産ギルドを立ち上げてもらう」
続いて、ナオトは二番目のプロジェクトの図面を広げた。そこには、街の周囲を流れる川から、碁盤の目のように張り巡らされた水路の設計図が描かれていた。
第二のプロジェクト――『近代的大規模農業と下水道インフラの同時整備』である。
「リーネ、人間側の予算として金貨千枚を割り当てる。これを使って、冬の間にカビから救った小麦の種を植えるための『大農地』を開墾する。ただし、ただの原始的な農業じゃない。ナオトが設計した『三圃式輪作』を導入し、土地を三つの区画に分けて交互に休ませることで、これまでの三倍の収穫量を永続的に維持する」
「三、三倍……!? そんなことが、魔法も使わずにできるんですか!?」
リーネが驚きのあまり椅子から立ち上がりそうになる。
「前世の世界の歴史が証明しているよ。さらに、街の中心部にはコンクリートを使った『密閉型下水道』を通す。住民の排泄物や生活排水をそのまま川に流さず、特定の処理池に集めて肥料として再利用するんだ。これで街の衛生状態は劇的に改善され、夏に流行する疫病の発生確率をほぼゼロに抑え込める」
近代都市管理の基礎である「公衆衛生」の概念。これを異世界に持ち込むことで、人口の生存率を爆発的に高めることができる。ナオトにとっては、役所の環境衛生課時代に嫌というほど叩き込まれた基本中の基本だった。
「お兄ちゃん! クロエのプロジェクトはどこー!? クロエ、お肉をたくさん捕まえるプロジェクトがいいな!」
ずっと我慢していたクロエが、ナオトの膝の上に両手を置いて身を乗り出してきた。ピンと立った犬耳が、期待に細かく震えている。
「もちろん、忘れていないよ、クロエ」
ナオトは微笑みながら、クロエの頭を優しく撫でた。
「第三のプロジェクトは『最果て狩猟・酪農組合の設立』だ。クロエには、金貨五百枚を預ける。これを使って、森の野生の『綿毛ウサギ』や『双角山羊』をただ狩るだけでなく、街の北側に作った巨大な牧場で『飼育・繁殖』させるための施設を作るんだ。野生動物のコントロール(管理)だね」
「し、しいく……? 捕まえて、殺さないで、お家で育てるの?」
「そうさ。そうすれば、森の天候が荒れて狩りができない日でも、いつでも新鮮なお肉と、あの最高級のウール生地になる毛皮が安定して手に入るだろう? クロエはその初代『組合長』として、獣人たちの仲間を率いて牧場の管理をお願いしたいんだ」
「く、くみあいちょう……! なんだかよく分からないけど、すっごく偉そうでかっこいい! クロエ、やる! やるよ、お兄ちゃん!」
クロエは嬉しさのあまり、ふさふさの尻尾をプロペラのように激しく回転させ、執務室の中に突風を巻き起こした。
「よし、予算の配分と方針は決まった。残りの金貨七百枚は、何かあった時のための『予備費』として領主金庫に厳重に保管しておく。……さあ、みんな。新年度の予算執行手続きは完了だ。明日から、ガルガルドの『大開拓時代』を始めよう!」
「「「おおおおおっ!!!」」」
少女たちの頼もしい鬨の声が、春を待つ領主館に響き渡った。
——
翌日から、ガルガルドの街は、これまでの「生存のための労働」から、「未来への投資のための建設」へと、完全にその性質を変えて激しく動き出した。
東側の渓谷では、ナオトから支給された頑丈な鉄製ツルハシを握ったオークたちが、地響きのような声を上げて温泉泥を掘り起こしていた。
「おい、この区画の泥は【材質鑑定】で最高品質の『特Aクラス』だと領主様が言っていたぞ! 傷をつけないように慎重に運べ!」
「分かっている! 人間の職人たちが首を長くして待っているからな!」
その泥が運ばれる先には、新しく建設された広大な「陶芸ギルド」の工房があった。
そこでは、年老いた人間の陶芸家が、温泉泥をこねて美しい壺の形を作り上げ、そのすぐ隣で、耳の尖った魔族の魔術師が、特殊なインクを使って壺の表面に緻密な魔術回路(術式)を刻み込んでいた。
「ほう……。お前さんの刻むこの線、実に滑らかで美しいな。これなら、焼き上がった後に魔法の力を流しても、決して器が割れん」
「フン、人間の分際で私の魔術線を評価するとはな。……だが、お前の作るこの器の均一な厚みがあってこそ、私の術式が完璧に機能するのも事実だ」
互いに職人としてのプライドを刺激し合いながら、人間と魔族の技術が融合していく。
完成した陶器に火を入れ、ナオトが設計した「超高温登り窯」で焼き上げると――それは、これまでのこの世界には存在しなかった、真珠のような鈍い光沢を放ち、内部に込められた魔力を永続的に保存できる奇跡の器『魔導陶器』となって姿を現した。
ナオトが【材質鑑定】で確認すると、その品質評価は『国宝級・市場価値:極めて高』を示していた。本国の市場に流せば、金貨数十枚で取引されるであろう最高級の特産品が、早くも量産されつつあったのだ。
一方、街の南側に広がる広大な荒野では、リーネの指揮のもと、数百人の難民たちとトロールたちが一緒になって、巨大な鍬で大地を耕していた。
「みんな、ナオト様がくれた『輪作の設計図』の通りに、この区画にはまだ種を植えちゃダメだよ! 今年は cloverを植えて、土に栄養を蓄えさせるんだから!」
リーネが現場監督として、羊皮紙の図面を片手に元気に指示を出す。
「おう、リーネの嬢ちゃん! こっちの排水路のコンクリート設置、終わったぞ!」
泥まみれになった人間の男が汗を拭きながら笑う。その足元には、ナオトが設計した、完璧な勾配を持つ下水道のパイプラインが、街の中心部へと向かってどこまでも美しく伸びていた。
さらに北の丘陵地帯では、クロエが率いる獣人の子供たちが、柵の中に閉じ込められた大量の「綿毛ウサギ」たちを追いかけ回していた。
「ほらほらー! 逃げちゃダメだよ! 毎日美味しいご飯あげるから、たくさん子供を産んでねー!」
クロエが柵の上を軽快に飛び跳ねながら、ふさふさの尻尾を揺らす。最初は警戒していた野生の魔獣たちも、ナオトが【材質鑑定】で調合した「魔獣が最も好む特製配合飼料」の美味さに完全に胃袋を掴まれ、今や家畜としてすっかり大人しく柵の中で草を食んでいた。
人間が耕し、魔族が作り、獣人が育てる。
かつてはお互いを「殺すべき敵」としか認識していなかった三つの種族が、ナオトという一人の文官が作った【予算】と【工程表】という共通の言語の前に、完璧な歯車となってガルガルドという街の価値を爆発的に高めていく。
——
数ヶ月が経ち、春が完全にガルガルドの街を黄金色の光で満たす頃。
街のインフラ改革と産業育成は、当初のナオトの予測をも上回るスピードで、完璧な実を結んでいた。
新しく開発された『魔導陶器』と『最高級天幕ウール』の噂は、早くも本国の商人たちの耳に届き、最果ての地であるはずのガルガルドの城門前には、毎日何台もの商隊の馬車が列を作るようになっていた。
ナオトは彼らに対し、本国の面倒な手続きをすべて簡略化する代わりに、「ガルガルド独自の通行税」と「現地通貨への強制両替」を義務付けることで、街の財政にさらなる莫大な利益をもたらし続けていた。まさに『最果て経済特区』の完成だった。
ある日の夕方。
すべての業務(残業)を終えたナオトは、領主館の広いバルコニーに出て、活気に満ち溢れた街の夜景を見下ろしていた。
かつて、崩れかけた石造りの家々が並び、飢えと寒さで死臭が漂っていたガルガルドの街は、今やどこにも存在しない。
美しく区画整理された石畳の道路。下水道が完備され、一切の悪臭が消え去った清潔な街並み。新築された家々の窓からは、温かい魔石の光と、住民たちの楽しそうな笑い声、そして美味そうな夕飯の香りが絶え間なく溢れ出てきている。
「……前世の役所で、毎日ボロボロになるまで書類を作っていた時は、自分の仕事が誰を幸せにしているのか、さっぱり分からなかったけれど」
ナオトは手元のお気に入りの手帳を見つめ、静かに微笑んだ。
「管理と分配。これだけで、世界はこんなにも変えられるんだな」
「ナオト様」
背後から、静かな足取りでリーネが歩み寄ってきた。彼女の手には、ガルガルドの工房で新しく作られた、美しい『魔導陶器』のカップに入った温かいお茶がある。
リーネはそれをナオトに手渡すと、自身の顔をほんのりと赤く染めながら、ナオトの隣で並んで夜景を見つめた。
「本当に……夢みたいです。ほんの数ヶ月前まで、私たちはここでただ死ぬのを待つだけだったのに。今ではみんな、明日何をして稼ごうか、どんな美味しいものを食べようかって、未来の話ばかりしています。……全部、ナオト様が私たちに『生きる意味』をくれたおかげです」
「僕はただ、みんなの能力を適切な場所に配置しただけだよ、リーネ」
「いいえ。その配置をするための『知恵』と『優しさ』を持っているのは、世界中でナオト様だけです。私……これからもずっと、ナオト様の専属書記官として、お隣で支え続けさせてくださいね」
リーネが甘えるように、ナオトの腕にそっと自身の体を寄り添わせる。
「おい、リーネ。抜け駆けは許さんぞ」
バルコニーの扉を開けて現れたのは、マルタだった。彼女は軍服の襟を少し緩め、手には本国の上質なワインボトルを抱えている。
「ナオト、今日の分の決済書類はすべて終わらせたぞ。私の部下たちも、今年の冬のボーナス(特別配給)を今から楽しみにしている。……さあ、今夜は街の新しい門出を祝して、私と朝まで祝杯を挙げてもらおうか」
マルタはナオトの反対側に立ち、その妖艶で美しい瞳でナオトを真っ直ぐに見つめた。
「お兄ちゃん! クロエも混ぜてー!」
どこからともなく飛び出してきたクロエが、ナオトの背中に勢いよく抱きついてきた。ふさふさの尻尾が、ナオトの顔の周りをくすぐるように激しくダンスしている。
「牧場のウサギさん、今日新しく十匹も赤ちゃんが生まれたんだよ! クロエ、すっごく褒めてほしいの!」
「ははは、みんなありがとう。よしよし、クロエは本当によくやったね」
ナオトはクロエの頭を優しく撫で回し、リーネとマルタの温かい視線を受け止めながら、どこまでも高く、澄み渡った異世界の夜空を見上げた。
本国の無能な貴族たちによって、最果ての流刑地へと追放された一人の「戦えない文官」。
しかし彼が持っていたのは、どんな最強の聖剣をも凌駕する、現代の『都市管理』という名の、無敵のお役所知識だった。
人間、魔族、獣人。すべての種族が手を取り合い、世界で最も豊かで、最も安全な、誰もが羨む「理想郷(ディストピアからの逆転劇)」を作り上げた、元公務員の異世界内政大改造ストーリー。
領主ナオトと、彼を愛する頼もしいヒロインたちの、数字と書類による世界変革への挑戦は――これからも、終わらない残業(幸せな街づくり)と共に、どこまでも続いていくのだった。
第一部・完




