第十話:癒しの猫と、束の間の休息
ヴァルが意気揚々と足を踏み入れたのは、真っ白な石造りの小部屋であった。
部屋の中心には、淡い光を放つ、赤と青の二つの『魔石』がふわふわと浮かんでいる。
ためしにヴァルが赤い魔石に手をかざすと、そこからは、人肌よりも少し熱を帯びた、心地よい温度の液体が止め処なく溢れてきた。
「うわぁ……お湯だ!」
記憶にある中では、浄化の必要のない水を見たことすら初めてだった。
手のひらでその温もりを受け止めているだけで、この上ない幸福感が込み上げてくる。
「ねえ、ガラハッド……すごいよ! これってもしかして『お風呂』っていう――」
「嫌だわガラハッド……年頃の女の子と同じ部屋で寝たいだなんて、不潔! 不潔ったらありゃしないわ!」
すぐさま相棒と、その夢見心地を共有しようとしたヴァルだったのだが――
振り返ると彼は、テオとイツェルに二人がかりで詰め寄られていた。
「あんたさっき自分で『ヴァルは保護してるだけで恋人じゃない』って言ってたわよね?」
「そ、それはそうですが……」
「恋人でも家族でもない若い男女が、同じ部屋に泊まるなんて絶対にダメ! ロナンからも二部屋分のお代を預かってるんだから!」
イツェルは街で見かける女性と比べ、随分小柄な体型をしている。
そんなイツェルとガラハッドとの間には、ひと回りほども背丈に違いがあるのだが――
それでも彼女は一歩も引き下がることなく、気迫たっぷりにガラハッドを睨め付けていた。
「くっ……」
イツェルの威圧感に根負けしたのか、ガラハッドはヴァルの部屋に踏み出しかけていた足を引っ込め、よろよろと後ずさっていた。
形無し状態の相棒を目の当たりにしたヴァルは、腹からせり上がってくる笑いを両手で押さえつけ、震える声でどうにか相棒を援護することにした。
「ふふふ……ガラハッド、大丈夫だよ。僕たちの部屋は隣同士みたいだし、そんなに心配しなくても……」
そんなヴァルの肩をがっしりと掴んだガラハッドの表情は、本気そのものの焦りと憂いに満ちていた。
「本当に……? 何かあったら、すぐに大声を出すんだよ。いいね」
「何かって、何があるってのよ……ここがそんなに危険な場所だと思ってるわけ?」
「普段はあんなに冷静なのに、ヴァルのこととなると気持ちが焦っちゃうのねえ」
呆れ顔のイツェルと、頬を赤らめ、身をくねらせるテオ。
一方の相棒からは、「窓を開けたままにするな」とか、「お腹を出して寝るな」とか、覚えきれないほどの忠告を畳み掛けられ、さしものヴァルもうんざりしかけていた――その時のことである。
聞き覚えのある、鈴の音のような「声」が響いていた。
「あっ……さっきの可愛い子!」
再び足元にふわふわした生き物の姿を認めたヴァルは、我を忘れてしゃがみ込んでいた。
「君、また来てくれたの?」
「あら、外でバンに会ったのね? 可愛いでしょ!」
黒と白の、綿毛をまとった生き物。
この上なく愛くるしいそれは「バン」と呼ばれているらしい。
「この子はうちの看板猫なのよ。うちの屋号――『常春の猫亭』は、この子から取ってるの」
テオの細長い手に撫で付けられると、バンは金色の瞳をうっすらと細め、短く鳴いた。
釣られてヴァルも、そっと指先を伸ばす。
するとバンは、自らヴァルの手のひらに優しく頬を擦り寄せてきた。
あまりの愛らしさに、心臓を鷲掴みにされたような感覚をおぼえる。
「猫……? そっか……この子、猫だったんだ」
「あら? ヴァル、猫を見るのは初めて?」
「うーん……どうなのかな? 猫っていう生き物がいるのは知ってるんだけど」
「そうなのね……」
記憶を失っているせいなのか、時折ヴァルはこのように、頭の中の「知識」と「実体験」とが結び付かず、混乱してしまうことがある。
無理に考えようとすると、頭が痛くなることもあるんだよな――
先刻フィアハやエニーデらと、ヴァルの武器のことについて話していたときに起きた頭痛も、これに似た感覚だったような気がする。
ダメだ、またこめかみがズキズキしてきた――。
難しいことは考えないようにして、ヴァルは目の前の「癒しの権化」を全力で愛でることにした。
「あっ――どうしたの?」
不意に、バンがヴァルの手を離れ、ふわふわの尻尾をピンと立てたまま、ガラハッドのいる方へ歩き出した。
そのまま彼の足元へすり寄るのかと思いきや、唐突に立ち止まったバンは、大きな耳をぺたんと伏せ、綿毛を逆立てて低く唸り始める。
続けざま、バンは喉から絞り出すような、鋭い摩擦音を発した。
「な、なんだよ――びっくりした!」
珍しくガラハッドが、驚きに目を丸くする様子が見えた。
小さな牙を剥き出しにしたバンの表情には、明確な敵意があらわれている。
「あら……この子、ガラハッドのことが気に入らないのかしら? 普段からほとんど人を威嚇したりしない子なんだけど」
今にも飛びかかりそうなバンの様子を、恐る恐る覗き込むテオ。
「ほんと、珍しいわね。ガラハッドって、動物に懐かれないタイプ?」
「知りませんよ、そんなこと……」
「大丈夫よ」とイツェルが優しく抱き上げると、先ほどまでの態度が嘘のように、バンは大人しくなっていた。
「ほらほら、バン。怖いお兄さんのいない猫亭に、さっさと帰りましょうね〜」
コロコロと笑うイツェルを無言で見つめたガラハッドは、不満げに下唇を噛み締めている。
さすがにちょっと、かわいそうかも――
居たたまれなくなったヴァルは、苦笑を浮かべつつ相棒のもとへ近付いた。
「まあまあ、ガラハッド。せっかくイツェルさんが綺麗にベッドを作ってくれたんだし、そろそろ休もうよ」
イツェルとテオの去り際を確認したガラハッドは、深々と溜息をもらし、鍔付き帽子を被り直した。
「分かったよ――じゃあまた明日ね、ヴァル」
そう言ってガラハッドは、隣室のドアノブに手を掛けた――はずだったのだが。
「いいかい? もし何か変わったことがあったら――」
「わかってる。わかってるよ。大声を出すんだよね?」
半ば強引に相棒を隣に押し込んでから、ヴァルはにこやかに手を振って、そっと扉を閉める。
そして、勢いよく自室を振り返っていた。
扉を閉めるなり、薄汚れた革鎧とブーツを脱ぎ捨てる。真っ先に駆け込んだのは、もちろん『お風呂』である。
心ゆくまで清潔なお湯を堪能し、生まれ変わったように晴れやかな気分で、ベッドに飛び込み、寝転がる。
一人でのんびりするのって、こんなに気持ちいいんだな――。
相棒の憂い顔を思い出すと、ほんの少し忍びない気持ちにはなる。
しかし、それを上回る解放感に包まれていたヴァルは、意味もなく広いベッドの上をごろごろと転がっていた。
ロナンの仲間って、どんな人たちなんだろう?
街の中はどうなっているのかな?
鐘楼を取り返す作戦って、どんな内容なんだろう?
次々と浮かんでは消えてゆく期待と、予感。この街へ辿り着いた充足感。明日を待ちきれぬ焦燥感――
やがて心が落ち着くと、唐突に眠気が襲ってくる。
天蓋からぶら下がる絹のカーテンを揺らしながら、ヴァルはそっと目を閉じ、まどろみに落ちていた――。
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