17/解放
アンカリング効果、という心理学用語がある。
アンカリングの意味は『アンカーを下ろす』。
最初にまず、大きな要求を出す。
するとそこに意識の錨が降ろされ、続いて出される要求が小さなものに見えてしまうというものである。
認識の相対化。先入観の固定化。
交渉において一番用いられる、最もポピュラーかつ効果のある基本術だ。
「……つまり、これに僕は引っかかった、と」
僕は本を読みながら唸った。
心理学ってのは面白いな、こうやって使うのか。
『バカ』
「……悪かったよ。次からはちゃんと気を付けるからさ」
『バーカ』
「…………」
さっきから水晶がチクチクしてくる。
なるほど。
僕がやるべきことだったのに、まんまとアネモネに利用されてしまったわけだ。
しかもご丁寧に本まで渡して。
……なじられるのも仕方ないことだろう。
「けど別に、無理難題を聞いたわけじゃないんだから良くないか?」
『私はアネモネを解放にしたことに文句を言ってるんじゃないんです。草十郎が、全く何も疑いもせず、ひょいひょいあの女の口車に乗せられたのがバカだと言ってるんです』
「疑いもせずにって……アネモネはまだ九歳だ。そりゃ大人っぽいし、しっかりした思考をしてるけど子供だよ。悪意なんてそうないさ」
『……草十郎のバカ! そうやって、女の尻に敷かれて利用される人生を歩んでいけばいいんです!』
「何の話だよ……人生規模にまで肥大化させないでくれ」
『あぁ……私の草十郎がチョロい……チョロすぎて不安になります……』
水晶のため息が止まらない。
こらこら、幸せが逃げちゃいますよ。
反省はしておくが、結果だけ見れば良好だ。
僕は魔法が使えるようになるし、アネモネは仮初の自由を手に入れた。
誰も不幸になっていないし、この先なることもないだろう。
◆
「魔法技能を伸ばす方法は二つあるわ」
二本の指を立てながら、アネモネがレクチャーを始める。
どうやら遊びには満足したらしい。
ストレス発散に使われたウルフたちは少しげんなりしていた。三十分ぐらい置物のように撫でられ続けていたのだから仕方ないとも言える。
「一つは魔法を使い続けることね。それだけで、魔法の源となる魔力と、魔法の精度を上げる技術の両方が伸びるとされているわ。誰にでも出来る一番一般的な方法よ。これを、私たちは内的研鑽と呼んでる。
もう一つは外的研鑽。こっちには色々と種類があって、新しい魔術を研究したり、魔導書で他の魔術の存在をそのまま取り入れたりするのがセオリーね。他にも怪しい薬を飲んだり、体の一部を弄ることで魔導を極めようとする道がある」
前者は自分個人で完結していて、後者はそれとは違うアプローチなのだと。
彼女はとても真面目な顔をして、説明を進めていく。
「つまり、外敵研鑽の方はドーピングってこと?」
「別に禁止はされていないわ。よほど道を踏み外さない限り、魔法技能を磨く方法に制限はないの。ただ、普通の人間がやるのは内的研鑽に留まる。外敵研鑽の域に触れると、それは魔術師と呼ばれる生き物になるわ」
「……魔法使いじゃないのか?」
「定義があるの。どれだけ権力を持っていたり、高い金や高い地位でも、魔法使いを名乗ることは許されない。今現在、魔法使いは八人しか存在を認められていないのよ」
彼女は言い含める様にして重ねる。
「魔法は万人が学ぶことのできるツールよ。その魔法を学ぶ際に大事なことは一つだけ。私たちは絶対に魔法使いを名乗ってはいけないの。それは自分で得られる地位じゃない。認めてもらわなければなれない」
「……よく分からないけれど、分かった。僕は魔術師になるってことね」
「正確には、魔術師見習いになるだけ、なんだけどね」
小難しい話はここまでにしましょう、と。
彼女は右腕を差し出してきた。
「……?」
「ひ、左手を出しなさい! 私が貴方に魔導の素養があるか調べてあげる」
「あぁ、なるほど」
握手か何かで、その素養とやらを測れるのだろう。
ワクワクしながら彼女の手を握る。
「どうかな。簡単な魔法ぐらいなら使えそう?」
「……待ってね。封魔具があるから、ちょっと分かり辛いかも」
「使っていれば上達するんだよね、魔法って。楽しみだなぁ……」
「……」
じっと結果が出るのを待つ。
……少し緊張してきた。や、魔力があるのかも気になるのだが、それ以上に、彼女の手の柔らかさを意識してしまう。やっているのはただの作業なはずだが、変な気分になってくる。
思えば女の子と手を握るのなんて久しぶりだ。
緊張しても仕方がないというもの。
ちょっとモヤモヤした気分で待つこと一分足らず。
やがてアネモネが口を開いた。
「ゼロね」
「ゼロ?」
「封魔具があっても、魔力があるかどうかぐらい分かるはずだけど……何も感じないわ」
「えぇ……」
「教会の子たちは皆、弱くても少しは感じたはずだけど……草十郎、貴方は皆無よ皆無。どうなっているのか私が知りたいぐらいに、手応えがないのよ」
「うーん……なら、仕方ないかなぁ」
ガッカリするが、実は覚悟していたことだ。
ゴブリンメイジから素養はないと言われていたし、何よりステータスの魔力の欄が最低値を示すFである。そもそも元から異世界人だ。こっちの世界の人間とは、体の造りからして違う可能性がある。
空を飛んでみたかったのだが、飛べないならば諦める他ないだろう。
「……執着しないのね。普通の子供なら泣き出しているところよ」
「僕はもう子供じゃないからね」
「私より身長低いくせに」
「……それは関係ないだろ」
「ふふ……でも、そうよね。ないならそれでやっていくしかないものね」
何が面白いのか、アネモネは笑っている。
想定の範囲内だ。
僕にはてんで才能と呼べるものがない。
期待していなかったと言えば嘘になるが、平常運転なのである。
そうと決まれば尚のこと、戦闘技能を磨かなければならない。
まだまだ技術も筋力も足りていない。つまり、こちらに関しては伸び白はあるということだ。モンスターと渡り合えるようになる余地は残されている。
礼を言って手を離す。
すると、アネモネが嫌そうな顔をして言った。
「……そう言えば、私は貴方に魔法を教えるって約束で、牢から出たわけだけど」
「……戻る?」
「イヤよ。またグルグル巻きにされるのは絶対にイヤ」
「そうだよね……。水晶、聞いてた? どうしようか?」
案を求めて呼び出すと、水晶が応えてくれた。
『聞いてましたよ。今すぐ檻の中に放り込みましょう』
「もしそうするなら暴れてやるわよ」
『魔法も使えない女児が抵抗できるとでも?』
「ちょっ、喧嘩しないでよ! ……あ、そうだ。訓練に付き合ってもらうのはどう? 魔法なしでも剣は扱えるよね? 僕の上達にもなるし、皆も人間相手に良い練習になると思うけど」
『……封魔具は絶対に外しませんよ? そんな彼女がオーガたちと戦えるとでも?』
我ながら苦しい提案を、水晶は訝しんだ。
その通りだ。魔法が使えない人間では、モンスターと戦えない。アネモネは確かに素晴らしい戦士だが、それは魔法が使えればの話である。そんな人間、訓練相手にもならないだろう。
だが予想に反して、アネモネは明るい声で返事をした。
「あぁ、その心配はいらないわ。私スキル持ちよ。貴方たちと戦っていた時だって、身体強化の魔法はほとんど使っていなかったわ」
『オーガと模擬戦できますか?』
「流石にオーガ相手は筋力上げてなきゃきついけど……命の取り合いまでは流石にやらないでしょう? それなら結構良い練習相手になると思うけど、私」
どう? と試すような目で僕を見てくるアネモネ。
言っていることが本当ならば、彼女は戦士として僕より遥かに高みにいることになる。未だに僕はスキルの一つも覚えられていないし、能力値も上がらないのだ。
そんな彼女は、おそらくこのダンジョンの成長に貢献してくれる。
こちらを伺っている水晶に、しっかりと意志を持って伝える。
「僕は良いと思う」
『……分かりました。そちらの条件でいいですよ。ただし、訓練よりも草十郎の指導を中心にお願いしますね』
「分かったわよ」
『でしたら早速お仕事です。オーガと模擬戦をお願いしましょうか。案内しますので、武器の要求等あれば今のうちに受け付けますよ』
「軽めの防具と、刃を潰した剣貰える? できれば重めの直剣が良いんだけど」
『了解です。それでは付いてきてください』
テキパキと次の話をしていくアネモネを見て、安心する。
またあの牢屋暮らしはさせたくなかった。見ているだけでなんだか嫌な気分になる。色々理由を取り繕っていたものの、良心の呵責がやばかった。
丸く収まって良かったと、心の底から思う。
走ってきたゴブリンから武具を受け取りつつ、彼女が顔を寄せてくる。
そして小さな声で、話しかけてきた。
「貴方、随分と過保護に育てられてるのね。あのダンジョンコア、色々考えているように見えてその実貴方のことばっかりじゃない」
「……一番弱いのは僕だしね。水晶には、助けてもらってる」
「……そ。まぁ条件だし? 私も少しだけ助けてあげるわ。その怪我を治してからだけどね」
「うん、助かるよ。ありがとう」
「じゃあ、行ってくるわ」
「行ってらっしゃい」
少女の背中を送り出すと、僕は誰も居なくなった牢屋の前へと赴く。
地べたへと座り込んで、置いてあった読みかけの本を手に取った。
今日この後行われるダンジョン防衛に、僕は参加できない。
今日もオークジェネラルが来るんじゃないかと不安に思ったが、水晶は大丈夫だと言った。強敵が矢継ぎ早にやってくる可能性は低いらしい。オーク族も、将軍オークを送り出して数日中は彼の帰還を待つだろうとのことだ。
理由を聞いて少しは安心したものの、結局ダンジョンが危険であろうがなかろうが、僕の傷は治らない。数日は絶対に動かせない。
ならば動けないなりに、次の機会のための牙を研ぐしか選択肢はないのである。
誰もいない部屋で一人、頭にモノを詰め込んでいく。




