最終話・また、必ず。
気まぐれに降り続く雨。
暗闇に続く、永い、永い、道のり。
全速力で、その上を駆ける。
分からない。
どこへ向かっているのかも。
でも、それで良い。
この道が知っている。
進むべき場所を。
何も見えない。
何も感じない。
ただ、聞こえてくる。
雨が、道を、自分を、
叩き付ける音が。
何を躊躇っていたのだろう。
何に怯えていたのだろう。
自明だったはず。
本当の望みが何であったかを。
偽りはもう、要らない。
ふと、今まで聞こえていた音とは違うそれがした。
雨の音ではない。
その音は、何かと似ていて、非なるもの。
耳を済ませてみた。
聞こえる。
確かに聞こえる。
雨音に混じる、その音が。
暗闇に慣れ始めた瞳が、その正体を伝えた。
その瞬間、
全てが、止まった。
雨の音も、時間の流れさえも。
そして、また動き出す。
時が、暗闇に浮かぶ、その確かな存在に、
命を与えたかのように。
気まぐれな雨が、
大きな音で、その場を包み込んでいた。
ピピピ、ピピピ、ピピピ・・・。
枕元に置かれた携帯電話の音が、部屋中に響き渡った。
もそもそ、と布団から伸びてきた右手が、その音源の所在を探る。
そして、バン!と大きな音と共に、その電子音を止めた。
「・・・もう朝か・・・」
彼女は欠伸と共に、壁に掛けられた時計を見た。
そして思い切り背伸びをしてから、先ほど叩いた携帯電話の無事を確認する。
ふと、彼女は枕に少し大きめのしみが出来ているのに気がついた。
不思議に思って、自分の顔を触ってみる。
その原因は、直ぐに分かった。
「・・・泣いてたんだ・・・」
両方の頬が、濡れていた。
そういえば、と先ほどまでの夢の断片を掻き集めてみる。
あまりよく覚えてはいないが、
多分、恋人同士の夢だった気がする。
楽しかった。
だけど、何だかとっても切なくて、苦しくて。
最後、どうなったんだっけ?
良く思い出せない。
二人は・・・あの後、
出逢えたんだっけ?それで、確か・・・。
そこで終わってしまった。
そうえいば、よく出てきた男の人、どんな顔してたっけ。
頼りない感じだけど、優しくて。
背が高くて、眼鏡をしていて、髪が・・・。
「おはよう。もう起きてるかい?朝だよ」
ドアのノック音と同時に、父の声がした。
「おはよう、お父さん」
父がドアを開けた。
「意外だね。もう起きてたの」
父が目を丸くした。
「まぁね。久々の大学だし。私もやる時はやるのよ」
「はいはい。そんな事言ってないで、早く着替えなさい。
駅まで送ってあげるから」
父が部屋を出ようとした。
「あ、お父さん・・・」
「ん?何?」
彼女はしばらく、父を見つめた。
「ううん。何でもない」
「そうか、早くしなさい」
父はそう言うと、階下へ向かった。
口から微笑がこぼれる。
彼女は急いでパジャマを脱いで、服に着替え始めた。
車は駅のロータリーの所に止まった。
父の秘書が、後部座席のドアを開けてくれた。
「今日は何時ごろに帰ってくる?」
「部活があるから、遅くなると思う」
「そうか、忘れ物は無いか?」
「うん」
「そういえば今日は雨が降るらしいから、傘も持っていきなさい」
いつの間に用意してくれていたのだろう、
父の手から、折り畳み傘を受け取る。
「は〜い。それじゃあ、行ってきます!」
「行ってらっしゃいませ、お嬢様」
「ありがとう。行ってきます!」
ドアの傍に立つ秘書にも挨拶をして、
彼女は勢い良く外に出た。
春の暖かさが、ふわりと薫る。
それだけで、幸せな気分になれる。
彼女は早足にホームまでの道を歩いた。
校門を入ると、たくさんの人だかりが出来ていた。
そこは法学部専用の掲示板の周辺だった。
法学部の学生である彼女も、そこの最後尾に向かう。
今日学校開始初日に登校した最大の理由。
卒業要件たる必修単位、所属『ゼミ』の発表があるからだった。
彼女の大学では、3年生から演習科目が始まる。
それが所謂『ゼミ』と呼ばれているものだった。
『ゼミ』の意義は大きい。
『ゼミ』は卒業までの2年間、入っていなければならない。
そしてその単位が取れなければ卒業は出来ない。
更に、単位が取れるのも、担当教官や授業内容に大きく左右される。
ディスカッション、プレゼンテーション、レポート提出・・・。
どのゼミでも、多くの課題が課される。
だから、2年間続けていける科目を選ばないといけない。
ここは、近年の大学批判というものを受けてか、
他の日本の大学とは違って、
入るのも難しければ、
出るのも難しい、という学生にとっては嬉しくないシステムになってきていた。
だから、その選択は慎重でなければならない。
そして人気のゼミはいつも抽選で行われる。
今日は、これからの2年間を決める、云わば『運命の日』だった。
「おはようございます」
見慣れた顔が、そこにはあった。
「あ、おはよう珠美。もうゼミ、見た?」
珠美、と呼ばれた彼女は、首を横に振った。
「こんな人だかりでは見えないです。
ところで、法学部ってこんなに人がいたなんて、今更知りました」
彼女は、自らが所属している美術部の仲間でもあった。
同い年なのに、何故か敬語を使ってくるちょっと変わった人だった。
だけど、大学では、彼女と一番仲が良い。
何故かいつも彼女のことを心配してくれて、そしてよく理解してくれて。
本人曰く、『分からないが、心配になってくる』とのこと。
時々小言も言ってきて、うざったく思うこともあったが。
それでも一緒にいると、何故か落ち着く人だった。
「そうだね。こんなにいたんだね」
「そういえば、どこのゼミを希望されたのでしたっけ?」
珠美が尋ねてきた。
「一応商法ゼミを志望したんだ。就職にも役立つかと思って。
今年かなり人気らしいんだよねぇ」
いつか社長である父の会社を継げるように、そう考えた上での選択だった。
不安そうな表情が、彼女の顔に浮かぶ。
「そうなんですか?私は憲法ゼミを志望したのですが。
あ、ちょっと空きましたよ。前に行きましょう!」
二人は若干減った人の間をすり抜け、掲示板の前に来た。
「えーと、憲法の所・・・。あ!私の名前ありました。ありました」
珠美が嬉しそうに呟く。
「・・・ハズレだ」
彼女は大きく溜息をついた。
「本当ですか?良くご覧になりました?」
「うん。やっぱり載ってないよ、私の名前」
憂鬱な気持ちが一気に押し寄せる。
彼女は一人、人の洪水から逃れるために泳ぎ出た。
急いで珠美もその後を追った。
「法学部事務室に行くの、面倒くさいなぁ・・・」
思わず口からぼやきが出る。
「でも、ゼミ取らないと卒業できませんよ?」
落ち着かない様子で、珠美が言った。
彼女達は部室のある棟の入り口に来ていた。
彼女は右手に持つ絵の具を珠美に押し付けた。
「これ、部室に置いといて。これから空きのあるゼミ、聞いてくるから」
ゼミの所属が決まらなかった者の、悲しい定め。
それは、ここからキャンパスの端っこに位置する法学部研究室を尋ねて、
定員に余裕のあるゼミ一覧を確認し、
担当教官に、直接交渉しに行かねばならないこと。
大学入学以来、行った事もない研究室に、
こんな用事で行くなんて。
「一緒に行きましょうか?」
心配そうな声が聞こえた。
「良いよ、独りで行ってくる」
再度、大きな溜息を吐き残して、
彼女は研究棟へと急いだ。
長い黒髪が、春の風と共にふわりと踊った。
「生憎、他の商法ゼミも一杯ですね」
機械的な答えが、カウンターの裏から無情にも返ってきた。
「それじゃあ、民法ゼミはどうですか?」
カタカタ、とキーボードの叩く音がする。
「・・・民法も一杯ですね」
両肩がストン、と落ちた。
脱落感と苛立ちが、一気に湧き上がる。
先ほどからのこの事務員の対応に
ムカムカしているところに、
望んでもいない答えばかりが跳ね返ってくる。
「それじゃあ、どこが空いてるんですか?」
ピリピリした緊張感が、声に走った。
「・・・あぁ、ここら辺ですね。ありました。ありました」
事務員がパソコンの画面を彼女のほうに向けた。
『空き』と書かれたゼミの一覧表。
そこに連なっているのは、やっぱり人気の無いゼミばかり。
法哲学、政治学、法制史、経済法、etc。
法学部生なのに、六法すらも出来ないのか・・・。
「六法系でしたら、ここだけ空いてますよ」
希望が心の奥底から湧き出ると共に、その人が指差す所を見た。
しかし、次の瞬間、彼女のしかめ面がスクリーンにうっすら反射する。
「・・・刑法ですか?」
「えぇ。刑法のこの先生ならば、未だ大丈夫みたいですよ」
刑法。
聞いただけで身震いする。
昨年、一番成績が悪かった科目。
大学のセールスポイントにもなっているらしく、
ここの法学部は刑法が良いということで有名らしかった。
特に学会でも有名らしい、
大村教授の刑法の授業は法学部でも一番難しい、とは聞いていたけど。
そこまでとは思っていなかった。
まさか、期末試験で司法試験の問題を出してくるだなんて。
今まで『優』と『良』しか取ったこと無かったのに、
―あまり勉強しなかったのもいけなかったのだけど―
唯一の『可』を付けられた科目。
次に履修すれば『不可』は確実。
それもよりによってゼミだなんて。
卒業出来ないのは大いに困る。
もうこうなったら、大幅に定員割れしている法哲学にでも・・・と思った時だった。
「この先生、今日付けで赴任されたばかりの方ですよ。
試しに話だけされたらいかがです?」
「え、そうなんですか?」
予想外の返答。
「はい。そういえば先ほど見かけたから、多分研究室にいますよ。
ほら、すぐそこの」
指の差された方を見た。
大村先生でなければ、どうにかなるかもしれない。
「・・・ありがとうございます」
彼女は深々と頭を下げた。
「あの、失礼します」
トン、トン、とドアを叩く。
返事が無い。
「あの〜。すみません・・・」
もう一度叩いてみる。
やはり返事は無い。
もう少し強く扉を叩いてみる。
・・・やはり返事はなかった。
『在室』と書かれた札がかかっているのに。
ふぅ、と彼女は溜息を付いた。
仕方ない、もう少ししたらまた来よう。
未だ、部活で行う来月の展示会用の絵も描き終わっていないし。
心配性の珠美も待っていることだろうし。
そう思って、彼女はその場を後にした。
まっすぐ歩いて、廊下の曲がり角に来た所だった。
「きゃ!」
突如目の前が、大きなものに遮られる。
「え?!あ、わわ・・・」
ドン。
大きな音と共に、バラバラバラ、と何かがたくさん上から落ちてきた。
それらに覆われながら、その場に彼女は尻餅をついてしまった。
「イタタ・・・」
「ごめんなさい!大丈夫ですか?!」
「・・・はい・・・」
彼女は自分に覆い被さってきたものの中の1つを手にとった。
それは、かなり古びた、1冊の分厚い本だった。
消えかかった表題に、目を凝らしてみる。
書かれていたのは、『刑法』という2文字。
何故だろう。
急に懐かしい気持ちに襲われた。
「・・・これ・・・」
どこかで見たのかな。
こんな古い本で勉強するなんて有り得ない。
けど、どこかで・・・。
「あの、怪我とかされていませんか?」
「え?あ、はい、大丈夫です・・・」
彼女は、それを横に置いて、顔をあげた。
目の前で、心配そうな顔をしている青年がいた。
眼鏡をかけた、背の高い人だった。
「申し訳ありません。
僕、本をそのまま積み重ねて持って来てしまう癖があって。
やはり大村先生に袋を借りるべきだったな・・・」
彼は済まなそうに、頭を下げた。
そして、その右手で頭を掻きながら、本を集め始めた。
彼女はその子供の様な仕草を見て、思わず吹き出してしまった。
「え?あ、また僕何かやっちゃいました?
実は僕、今日初めてここに来たんですが、もう緊張しちゃって何がなんだか・・・」
ぼさぼさの髪に、さらに拍車がかかっていく。
それと同時に、今日見た夢の断片が、脳裏を駆け巡る。
「いいえ。そんなことありませんよ」
彼女も一緒に散らばった本を集めた。
「少しお持ちしましょう」
彼女は彼の返答を待たずに、ことを進める。
「え?あ。本当に済みません。
本をぶつからせておきながら、こんなことまで・・・」
ふと、先ほど覆い被さってきた本のそれが目に留まった。
「・・・あの」
その本を手に取り、表紙を彼の方に向ける。
「はい?」
「・・・この本、いつ頃の本ですか?」
彼が一瞬考え込むような表情を見せた。
「えーと。確か随分昔の本ですよ。1920年代ぐらいかな?
当時の刑法学者の牧先生という方が書かれたものです」
彼女は表紙を見つめた。
「何でも、
その先生の弟子である藤木先生・・・という刑法学者がいらっしゃったのですが、
その藤木先生がお亡くなりになられた後、
先生の奥様が寄贈されたそうですよ。
そういえば面白い事に、たくさんの本の中で、
それだけは藤木先生のものではなく、奥様の所有であったとかなかったとか」
「そうですか・・・」
くたびれた表紙を見つめた。
眠っていた何かが目覚め始める。
「刑法の歴史に興味がおありでいらっしゃるんですか?」
彼が珍しそうに聞く。
「えぇ。まぁ・・・」
彼女の唇に笑いが灯る。
「ご存知ですか?」
「はい?」
「この本、牧先生が藤木先生の奥様に、直接贈ったんですよ」
両腕でその本をぎゅ、と抱いた。
「え?・・・何故ご存知なのですか?」
彼が呆気にとられた顔をした。
彼女はその顔を見て、無性に嬉しい気持ちになった。
「・・・何ででしょうね。研究室、あっちですよね」
彼女は本を抱えながら研究室の方に歩き出した。
「ちょ、ちょっと待って」
彼が慌てて落ちていた残りの本を拾い上げて、後を追った。
「わざわざありがとうございます」
二人は研究室の前に着いた。
ドアの前に山積みにされた本を隣に、
彼はズレ落ちた眼鏡を戻しながら言った。
その様子を見て、彼女は思った。
ここで良い、と。
いや、ここじゃなきゃいけない、と。
「先生」
「はい?」
「先生は刑法の准教授でいらっしゃいますよね?」
「えぇ。そうですが」
「私、先生のゼミに入れるかどうかを尋ねに来ていたんですが・・・」
「あ、そうだったんですか」
彼はよれたスーツのポケットから鍵を取り出し、
ドアを開けた。
開いたドアの向こうには、真っ白な壁に、大きな窓が見えた。
「大歓迎ですよ。一緒に刑法を勉強していきましょう」
彼が微笑む。
その笑顔に、先程の思いは確信へと変わっていく。
「それでは、名前と学籍番号の方を教えてください」
「L045317。小幡幸です。よろしくお願いします」
胸ポケットに掛けられたペンで、彼が手帳に書き留めていく。
「小幡さん・・・と。はい、分かりました。後でレジスターしておきます。
あ、僕は林と申します。こちらこそよろしくお願いしますね」
林は手帳をポケットに閉まった。
そして、その右手を彼女に差し出した。
彼女も、その手を右手で取る。
握り締めた感触。
初めてじゃない。
どこかで、もう知っている。
この手から伝わる暖かさは。
「あの、先生の御専攻は?」
「共犯論です。
現代の共犯論を確立された藤木先生の理論から現在の学説の考察等が中心ですが・・・」
突然、彼は、少し考えた様子になった。
しばらく黙ってから、こう続けた。
「さっきから、僕喋りっぱなしですね。
何故でしょう。僕、初対面の方とはあまり喋らないんです。
それなのに何だか、貴女とは初対面の気がしないんですよ」
彼が笑う。優しく、暖かく。
「不思議ですね。・・・でも、私も、そんな気がします」
彼女も、それにつられて笑った。
彼が、彼女を映すその瞳を、少し細めた。
まるで、眩しいものを見つめるかのように。
彼女は、ふと窓の外を見た。
何時の間にか、外はどしゃ降りの雨だった。
激しく打ち付ける、雨の音。
始まる。
全てが、再び。
そう、雨の音色が、彼らに告げていた。
Fin.




