第9話「アリエッタ、顔を上げて、前を見てみてください」
風が凪いだ。
岸辺に寄せては返していた小さな波がゆっくりと動きを止めていく。
やがて波の音が消えた。
湖面の起伏がなくなり、月明かりの揺らめきも収まっていく。
水面は一枚の鏡のようになり、空に浮かぶ月と無数の星々がくっきりと映し出された。
まるで湖が息を止めたようだった。
こんなに鎮まった湖は見たことがない。
「行きますよ」
ヴェリアはアリエッタの手を引き、湖へ向かって歩き始めた。
ヴェリアが迷うことなく水面へ足を踏み出した。
アリエッタも湖へ足を踏み出す。
「え……」
水の中へ沈むはずの足が沈まない。
足の裏には、硬い地面を踏んだような確かな感触があった。
アリエッタは思わず足元を見下ろした。
茶色い革靴が深い藍色の水面に乗っていた。
不思議な感覚に戸惑いながらも、アリエッタは顔を上げ、歩みを進めた。
背後から人々のざわめきが聞こえてきた。
驚きの声に混じって、水をばしゃばしゃと叩くような音も聞こえる。
きっと、湖面を歩く二人を見て、自分たちも歩けるのではないかと試しているのだろう。
アリエッタは思わず振り返りそうになった。
けれど、手を繋いだらもう振り返ってはいけないと言われたことを思い出し、前を向いたまま歩き続けた。
湖の上を進むにつれて、背後のざわめきは次第に小さくなっていった。
やがて、水を叩く音も、人々の声も聞こえなくなった。
目の前には星と月が輝く夜空が広がっている。
進む足元にもまったく同じ景色が映っていた。
周囲には夜空と湖面の境目さえ見当たらなくなっていた。
まるで星空の中を歩いているようだ。
「あの水色に光る星が見えますか?」
ふいに、ヴェリアが杖を持ち上げ、進行方向を指し示した。
ヴェリアが指した先に、ほかの星々よりもひときわ明るく輝く水色の光が見えた。
「はい」
「あの星に向かってまっすぐ歩きますよ」
ヴェリアは杖を下ろした。
「途中で目を逸らしてはいけません」
「はい」
アリエッタは頷き、水色の星をまっすぐに見つめた。
瞬きさえこらえながら、アリエッタは星へ向けて進む。
しばらくすると、星が少しずつ大きくなっていることに気づいた。
一歩進むごとに距離が縮まり、その輝きも強くなっていく。
アリエッタは眩しさに目を細めながらも、ただその光を見つめて歩き続けた。
水色の星は、もはや星とは思えないほど大きくなっていた。
光が周囲の星々を飲み込み、夜空を少しずつ覆い隠していく。
ついには、視界のすべてが水色の光に包まれた。
あまりの眩しさにアリエッタは思わず目を閉じそうになる。
それでも、ヴェリアの言いつけを守り、視線を逸らさなかった。
水色だった光は、やがて色を失い、白く変わっていった。
白い光が霧のように濃くなり、アリエッタの体を包み込んだ。
隣を歩いているヴェリアの姿も見えない。
目を凝らしても自分の腕さえ見えなかった。
アリエッタは懸命に足を前へ運んだ。
けれど、足元の感触もいつの間にか曖昧になっていた。
自分の足が動いているのかさえ分からなくなってくる。
それでも、繋いだ手の温もりだけは確かだった。
アリエッタはその温もりを頼りに歩き続けた。
◆◆◆◆◆
ふいに、風が吹いた。
アリエッタの頬を微かな風が撫でた。
冷気と湿り気を含んだ風だった。
真っ白に塗りつぶされた視界の向こうから途切れることなく吹いてくる。
風は次第に強くなり、アリエッタの髪と外套を激しくはためかせた。
耳元では高い風切り音が鳴り始め、やがて耳を塞ぎたくなるほど大きくなった。
足元にかすかに残っていた地面の感触が、ふっと消えた。
「わっ……!」
空中に放り出されたような浮遊感に襲われ、風で身体が押し流されていく。
アリエッタはヴェリアの手を手繰り寄せ、その腕にしがみついた。
白い視界の中を猛烈な風が吹き抜けていく。
顔には冷たい水滴が次々と当たった。
次の瞬間、目の前の白が唐突に途切れた。
視界いっぱいに広がる鮮やかな青。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
青空、白い雲、緑色の大地――。
次々と目に飛び込んでくる光景に頭が追いつかない。
強烈な風が顔を打ちつけ、耳元で激しい風切り音が鳴り響いている。
周囲に雲が浮かび、遥か下方に大地が広がっていた。
アリエッタは自分が置かれた状況を理解した。
空にいる。
落下している。
「――っ!」
声にならない悲鳴を上げ、アリエッタはヴェリアの身体に強くしがみついた。
恐怖に耐えきれず、目をぎゅっと閉じた。
外套がばたばたと暴れ、身体が風に引き裂かれそうだった。
「アリエッタ、目を開けて」
ヴェリアの声が聞こえた。
激しい風の中にいるというのに、その声は不思議なほどはっきりと耳に届いた。
「両腕を思い切り広げて、大地に向かって胸を張ってください」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
けれど、意味を理解した途端、そんなことは絶対にできないと思った。
「怖いです! 先生!」
アリエッタは必死に声を上げた。
目を閉じていても、身体がものすごい速さで落ちていることが分かる。
もしヴェリアの手を離してしまえば、きっと地面へ叩きつけられる。
腕を広げるなんてできるわけがない。
「大丈夫です」
ヴェリアの声はいつもと変わらなかった。
「風も空も、あなたの敵ではありません」
柔らかな声が、激しい風の中を通り抜け、アリエッタの耳に響く。
「あなたが受け入れたら、優しく迎えてくれますよ」
ヴェリアの言葉は聞こえていた。
それでも怖くてたまらなかった。
「何があっても、私はあなたの手を離したりしません」
その一言が胸に深く届いた。
アリエッタにとって何よりも力強い言葉だった。
ぎゅっと握り締めていた手に意識を向ける。
ヴェリアがしっかりと握り返してくれていた。
その感触を頼りに、アリエッタは恐る恐る薄目を開けた。
すぐ隣にヴェリアの顔があった。
その表情に焦る様子など微塵もなかった。
いつもと変わらない穏やかな笑み。
――先生が一緒なら大丈夫。
湧きあがった確信が恐怖で固まっていた心をわずかに緩めた。
それをきっかけに、張り詰めていた気持ちが少しずつ解けていった。
ヴェリアは手本を見せるように、左腕を広げて胸を張っていた。
アリエッタもゆっくりと右腕を伸ばしてみた。
続いて、ヴェリアの手を握ったまま左腕も広げた。
二人の距離が少しずつ開いていく。
アリエッタは言われたとおり、大地へ向かって胸を張った。
全身で風を受け入れる。
風が体を押し上げる。
耳元で荒れ狂っていた風の唸りが澄んだ風切り音に変わった。
身体を預ければ、たちまち弄ばれてしまうと思っていた。
けれど、風はアリエッタを下から力強く支えていた。
それでもまだ、アリエッタは繋いだ手から目を離せなかった。
「アリエッタ、顔を上げて、前を見てみてください」
ヴェリアに促され、アリエッタは視線を引き剥がすようにゆっくりと顔を上げた。
そして、目の前に広がる光景に言葉を失った。
なだらかな起伏を幾重にも重ね、眼下いっぱいに広がる瑞々しい緑の大海原。
遥か地平の彼方、緩やかな弧を描きながら蒼穹へと溶け込んでいく大地。
淡青から紺碧へ、澄んだ青の階調を深めながら天高く広がる大空。
その青に浮かぶ、雪のように白く、綿のように柔らかな雲の群島。
天上から惜しみなく降り注ぎ、天地の隅々まで照らし出す眩い黄金の陽光。
緑と青と白と金と――。
どこまでも続く大地と、どこまでも広がる空。
果てしない世界が、アリエッタの目を通して胸の奥まで流れ込んでくる。
――なんて、大きい。
こんなにも広く美しい世界があるなんて知らなかった。
アリエッタは思わずヴェリアを見た。
ヴェリアは楽しそうに笑っていた。
何も言わなくても、自分の感動がすべて伝わっているのが分かった。
アリエッタは再び前を向き、落ちていることも忘れて景色に見入った。
どれほど目を見開いても、広がる景色は視界に収まりきらなかった。
手も足も、胸も腹も、背中までもが目になったかのように、アリエッタは全身で世界を見つめていた。
◆◆◆◆◆
落ちているはずなのに、地上はなかなか近づいてこなかった。
少しずつ地平線がせり上がり、緑の大地が青空を押し上げていく。
やがて草原が視界の大部分を占め、地表の起伏まではっきりと見えるようになった。
アリエッタは、地上が迫っていることに気づき、再び身を強張らせた。
けれど、大地はそれ以上迫ってこず、代わりに眼下の景色が勢いよく後方へ流れていく。
真下への落下は、いつの間にか水平の飛行へと変わっていた。
身体の下を風が通り抜け、二人は草原の上を滑るように進んでいる。
黄緑色の草原を駆け抜け、緩やかな丘を次々と越えていった。
徐々に高度は下がり、速度も落ちていく。
草原に映る二人の影との距離が縮まり、草の輪郭まで見分けられるようになった。
「アリエッタ、身体を起こして、足を下に向けてください」
ヴェリアの言葉を受けて、アリエッタは繋いだ手を頼りに身体を起こし、両足を地面へ向けた。
柔らかな布団に身体を受け止められたかのように、前へ進む勢いがふわりと消えた。
そのまま、ゆっくりと降下していく。
草の穂先が靴に触れた。
サク、と草を踏む音がした。
靴の裏に柔らかな土の感触が伝わり、身体にずんと重さが加わった。
アリエッタは呆然と自分の足元を見つめていた。
「もう大丈夫ですよ」
顔を上げると、ヴェリアが優しく微笑んでいた。




