第8話「このあと、私と手を繋いだら、もう振り返ってはいけません」
ヴェリアに弟子入りしてから二日後の夜。
雲のない夜空には月が浮かび、無数の星々が瞬いている。
町の中心に位置する湖のほとりでは、穏やかな風が吹き、小さな波が浜を洗っていた。
浜辺には大きな人だまりができていた。
その中心に、ヴェリアとアリエッタが並んで立っていた。
魔術師ヴェリアが弟子を連れて夜の湖から旅立つ。
その噂が町中に広まり、子供から老人まで数十人が見送りに集まっていた。
「本当にここから出発するの?」
パン屋の女性が、不思議そうに湖を眺めながらアリエッタに尋ねた。
「はい。わたしも、よくわからないですけど……」
アリエッタは頷いたものの、言葉を濁した。
町から旅立つ人を見送るときは、街道沿いの広場に集まるのが常だった。
湖から流れ出る川は下流の町へと続いているが、船が行き来することはない。
異世界へ行くとはヴェリアから聞いていたが、具体的な方法までは聞いていなかった。
異世界は湖の中にでもあるのだろうか。
泳ぎは得意だから大丈夫だと思うけれど、服や荷物が濡れてしまわないだろうか。
そんなことを今さら考えながら、アリエッタは隣に立つヴェリアを見上げた。
ヴェリアはいつもの赤い外套を羽織り、肩からバッグを斜めに掛け、片手に杖を持っている。
アリエッタも、ヴェリアと同じような装束に身を包んでいた。
外套も長衣も、ヴェリアが持っていた予備のものを譲り受けている。
アリエッタには少し大きかったため、袖丈や裾丈を調整してあった。
濃紺の外套には金糸の刺繍が施され、長衣の襟元や裾にも繊細な模様があしらわれていた。
まだ魔術を一つも使ったことがないのに、袖を通した時からすっかり一人前の魔術師になったような気分だった。
「まさか、魔術師になりたかったなんてなあ」
漁師の男が感心したようにアリエッタを見た。
「わたしも、こんなことになるとは思っていませんでした」
アリエッタは照れくさくなって笑った。
弟子になると決めた翌日、アリエッタはヴェリアとともに孤児院の院長である神父に事情を説明した。
ヴェリアと十年間、異世界を旅しながら修行すると聞いて、神父はひどく驚いていた。
それでも、アリエッタ自身の意思を確かめ、最後には旅立ちを許してくれた。
旅立ちまでの二日間は慌ただしく過ぎていった。
ヴェリアと一緒に旅の支度を整え、これまで世話になった町の人々を訪ねて挨拶をした。
誰もが突然の話に驚いていたが、アリエッタの顔を見ると、笑顔で旅立ちを応援してくれた。
中には、出発を見送りたいと申し出てくれる人もいた。
そして今夜、こんなにも大勢の人々が見送りに来てくれたのだった。
「風邪を引かないようにね」
「ヴェリアさんの言うこと、ちゃんと聞くんだよ」
「十年後にはまた戻ってくるんだろう?」
「立派な魔術師になって帰ってこいよ」
「これ、旅の途中で食べてちょうだい」
「こっちも持っていきな」
「アリエッタ、これも!」
次々に声を掛けられ、返事をする暇もない。
何人かが、布に包んだ保存食を差し出し、アリエッタの両手はたちまち包みでいっぱいになった。
「えっ、でも、こんなにいただいてしまっては……」
アリエッタは困ったようにヴェリアを振り返った。
ヴェリアは微笑み、小さく頷いた。
「あ、ありがとうございます」
アリエッタは深く頭を下げ、渡された包みを大切に肩掛け鞄へしまった。
「いい町ですねえ」
アリエッタの様子を眺めながらヴェリアが呟いた。
町の男性たちがヴェリアの前に進み出た。
「ヴェリアさん、こっちは俺たちからだ」
差し出されたのは、きれいな布で包まれた大きな箱だった。
「おや、私にもですか?」
「ヴェリアさんにはいろいろ世話になったからな」
「町のみんなからの餞別だよ」
「少しずつ金を出し合って買ってきたんだ」
男たちが口々に言葉を添えた。
「まあ、わざわざそんな……」
ヴェリアは差し出された箱を受け取った。
「中を見てもよろしいですか?」
「もちろんだ」
ヴェリアは包みをほどき、箱の蓋を開けた。
「こ、これは……!」
ヴェリアの紅い瞳が輝いた。
箱の中には色とりどりの菓子がぎっしりと詰まっていた。
「ヴェリアさん、甘いものが好きなんだろう?」
「ええ、それはもう」
ヴェリアはしばらく菓子を見つめ、それから顔を上げた。
「ありがとうございます。大切にいただきますね」
ヴェリアは嬉しそうに菓子の箱を抱えた。
「本当に、いい町ですねえ」
「なんだ、今ごろ気づいたのか?」
町の人々がどっと笑った。
ヴェリアも笑い、箱に蓋をして布で包み直すと、鞄を地面に下ろし、大事そうにしまった。
「アリエッタ!」
人垣の向こうから声が上がった。
振り返ると、教会の孤児院で一緒に暮らしてきた子供たちがこちらへ駆け寄ってきていた。
その後ろには神父やシスターたちの姿もあった。
「みんな!」
子供たちがたちまちアリエッタを取り囲んだ。
「アリエッタ、魔術師みたいな格好してる!」
「その服どうしたの?」
「かっこいい!」
「ねえ、ちょっと回って見せて!」
アリエッタは少し照れながら、その場でくるりと回ってみせた。
紺色の外套がふわりと広がり、子供たちから歓声が上がった。
「アリエッタ、本当に行っちゃうんだね……」
子供の一人がぽつりと呟いた。
その一言にアリエッタは言葉を詰まらせた。
孤児院のみんなには昨夜のうちにきちんと別れの挨拶を済ませていた。
それでも今日の昼には、子供たちがアリエッタのために集まり、別れの歌を歌ってくれた。
一生懸命に歌うみんなの姿を見ているうちに涙があふれ、アリエッタは最後まで泣きながら聴いていた。
夜になってようやく落ち着いたと思ったのに、こうして顔を合わせると、また胸の奥が熱くなってくる。
「アリエッタ」
神父が穏やかな声で呼びかけた。
「身体には十分気をつけるんだよ」
「はい」
「しっかり学んでおいで」
「はい」
神父はアリエッタの肩に手を置き、そっと抱きしめた。
アリエッタも神父の背中に腕を回した。
続いてシスターたちとも一人ずつ抱きしめ合った。
最後のシスターから離れると、子供の一人がアリエッタに抱きついてきた。
それにつられて、ほかの子供たちも次々にくっついてきた。
「わっ、みんな……!」
たちまち子供たちにもみくちゃにされ、アリエッタも子供たちも一緒になって声を上げて笑った。
ふと見ると、ヴェリアと神父が目を合わせ、互いに小さく頷いていた。
「アリエッタ、そろそろ時間です」
ヴェリアが声をかけた。
子供たちが名残惜しそうにアリエッタから離れ、町の人々も道を空けた。
アリエッタはヴェリアのそばへ歩み寄った。
ヴェリアが湖の方へ歩き出すと、アリエッタもその後に続いた。
二人は波打ち際に並んで立った。
月は高く昇り、その光が湖面に長い道を描いている。
「アリエッタ、気をつけることは覚えていますか?」
「はい」
旅の支度をしている間に、ヴェリアからは異世界渡航について、いくつかの説明を受けていた。
ヴェリアは、これから向かう世界を過去に何度か訪れたことがあるという。
ただし、目的の世界へ渡ることはできても、正確な到着地点まではわからないらしい。
海の中に出現するかもしれないし、深い森の中かもしれない。
ある程度は安全な場所を狙っているものの、場合によっては思いもよらない場所に出る可能性もある。
そのため、ヴェリアからは二つのことを繰り返し言い聞かされていた。
「では、確認しましょう」
ヴェリアがアリエッタへ向き直った。
「一つ目は?」
「先生がもう大丈夫と言うまで、何があっても手を離さないことです」
「二つ目は?」
「先生の言うことを聞くことです」
「はい、そのとおりです」
ヴェリアは満足そうに頷いた。
そして、杖を持ち直すと、湖へ視線を向けた。
「このあと、私と手を繋いだら、もう振り返ってはいけません」
アリエッタは息を呑んだ。
いよいよ、本当に出発するのだ。
「皆さんに最後のご挨拶を」
「はい」
アリエッタは頷き、集まってくれた人々へ向き直った。
神父とシスターたち、孤児院の仲間たち、いつも声を掛けてくれた町の人々がアリエッタを見守っている。
アリエッタは背筋を伸ばした。
「皆さん、今まで優しく見守っていただき、ありがとうございました」
アリエッタは深く頭を下げた。
しばらくして顔を上げると、人々の顔には温かな笑みが浮かんでいた。
「一生懸命勉強して、立派な魔術師になって帰ってきます」
一人ひとりの顔を見渡してから、大きく息を吸った。
「行ってきます!」
アリエッタは声を張り上げた。
「行ってらっしゃい!」
「元気でね!」
「頑張ってこいよ!」
あちらこちらから、次々に応える声が上がった。
孤児院の子供たちも手を振りながら口々にアリエッタの名前を呼んでいた。
アリエッタはその声を胸に刻むように、みんなの姿を見つめた。
そして、隣に立つヴェリアに顔を向けた。
「お願いします、先生」
「はい」
ヴェリアが微笑み、アリエッタへ手を差し出した。
アリエッタはその手をしっかりと握った。
二人は並んで湖の方を向いた。




