第7話 「さて、大変なことになりましたねえ」
ヴェリアの家を出ると、陽はすでに沈みかけていた。
西の空が茜色に染まり、木々の間から差し込む光も赤みを帯びていた。
「もうこんな時間ですね」
ヴェリアが空を見上げた。
「今から一人で山道をおりるのは危険です。教会まで送りましょう」
「ありがとうございます」
アリエッタが頭を下げると、ヴェリアは外套の懐から一枚の紙を取り出した。
何の変哲もない白い紙だった。
ヴェリアはそれを二つに折り、さらに端を折り返していく。
慣れた手つきで何度か折るうちに、紙は翼を広げた鳥のような形になった。
「これは紙飛空艇です」
「紙飛空艇?」
ヴェリアは折った紙を、ぽいっと空中へ放った。
空中で紙が淡い光を帯びる。
次の瞬間、みるみる大きくなっていった。
手のひらほどだった紙飛空艇は、あっという間に馬車ほどの大きさになった。
そのまま地面の少し上にふわふわと浮かんでいる。
呆気に取られているアリエッタの横で、ヴェリアが紙飛空艇の上にのぼった。
「さあ、乗ってください」
ヴェリアが手を差し出した。
アリエッタはその手を取り、紙飛空艇に足をかけ、ヴェリアの隣に座った。
足元は紙のはずなのに、アリエッタたちを乗せてもびくともしない。
「しっかりつかまっていてくださいね」
「えっ、どこに――」
紙飛空艇がゆっくりと前へ動き出した。
「わっ」
アリエッタは慌ててヴェリアの袖にしがみついた。
二人を乗せた紙飛空艇は、短い草の上を滑るように進みながら、だんだん速度を上げていく。
吹きつける風が強くなり、二人の髪が後ろへなびいた。
やがて紙飛空艇の先端が持ち上がり、足元がふわりと地面から離れた。
一瞬、お腹の中がふっと浮き上がるような感覚がした。
そのまま斜めに空へ昇っていく。
前方には高台を覆う木々が迫っていた。
紙飛空艇はさらに高度を上げ、梢をかすめて飛び越えた。
次の瞬間、視界が一気に開けた。
「わあ……!」
アリエッタの口から感嘆の声が漏れた。
目の前には茜色の空が大きく広がり、夕陽のまわりを赤く染まった雲が漂っていた。
その下には、深い紺色の湖が広がっている。
傾いた陽の光を浴びた湖面が金色にきらきらと輝き、ほとりには小さな町が寄り添っていた。
高台へ登る途中で見下ろした景色を、今度は空の上から見ていた。
アリエッタはヴェリアの袖をつかんだまま、夢中で眼下の景色を眺めた。
風が吹き抜けていく。
焦げ茶色の長い髪が後ろへ大きくなびき、夕陽の光を受けて赤く染まる。
紙飛空艇は湖上の風を受けながら、町へ向かって飛んでいった。
夕陽を浴びた町が徐々に迫ってきた。
「あれが教会ですね」
ヴェリアが家々の屋根に混じった尖塔を示した。
「はい」
紙飛空艇は町の上で大きく弧を描き、教会へ向かってゆっくりと高度を下げていった。
地面すれすれまで降りると、そのまま滑るように進みながら速度を落とし、静かに止まった。
ヴェリアが先に降り、アリエッタへ手を差し出した。
アリエッタはその手を取り、地面へ足を下ろした。
足の裏は地面を踏んでいるのに、まだ空の上を飛んでいるような心地がした。
「では明日、私から教会の方にお話をしに伺いますね」
「はい。ありがとうございました」
アリエッタは深く頭を下げた。
ヴェリアはふたたび紙飛空艇に乗ると、アリエッタに柔らかく微笑んだ。
「それでは、また明日」
「はい。また明日」
紙飛空艇がゆっくりと前へ進み始めた。
速度を上げ、すうっと宙へ浮かび上がる。
ヴェリアを乗せた白い紙飛空艇は、夕陽に染まった町の屋根を越え、湖の向こうの高台へ飛んでいく。
アリエッタはその姿を目で追った。
ヴェリアの弟子になって異世界へ行く。
昨日までのアリエッタは、この町を離れて異世界を巡ることになるなんて、想像もしていなかった。
自分で決めたことなのに、まだどこか現実のこととは思えなかった。
白い紙飛空艇が高台の木々の中に溶けていく。
アリエッタはその姿が見えなくなるまで教会の前に立って見送っていた。
◆◆◆◆◆
夕闇の中を紙飛空艇が飛んでいく。
眼下の湖面は暗さを増し、湖の周囲に点在する家々には明かりが灯りはじめていた。
進む先には、湖を見下ろす山並みが黒い影となって横たわり、その上には藍色の空が広がっている。
空の高いところでいくつかの星が瞬いていた。
ヴェリアは一人、紙飛空艇の上から星を眺めていた。
――怖いからです。
ヴェリアはアリエッタの言葉を思い返した。
――分からないことが、怖いです。
その言葉が耳に残っていた。
自分が誰なのかも、どこから来たのかも分からない。
何も見えない暗闇の中にいるようで、どちらへ進めばいいのかも分からない。
その恐怖を、ヴェリアは痛いほど知っていた。
かつて自分もそこから始まった。
助けたい。
この少女の力になりたいと、ヴェリアは思った。
今、スーメリアへ渡るには危険があり、十歳の少女を連れて安全に行き来できるとは言えない。
向こうへ渡ったところで、何が待っているのかも分からない。
アリエッタに話したことに嘘はなかった。
ただ、それはあくまでアリエッタの安全を第一に考えた場合の話だ。
手段を選ばなければ、今すぐアリエッタを連れてスーメリアへ渡ることはできる。
記憶に残された風景を探しだし、彼女の過去へ繋がる手がかりを見つけることもできるだろう。
三千年以上を生きてきた魔術師。
ヴェリアことアヴェロリア=ミステインには、それを可能にするだけの力があった。
だが、ヴェリアはそれをしようとは思わなかった。
アリエッタは三年前、湖のほとりで倒れているところを発見された。
教会に保護され、名前を与えられ、年齢を決められた。
それからずっと、自分が何者なのか分からないまま、目の前にあるものを受け入れて生きてきた。
その苦しさを、ヴェリアは誰よりも理解していた。
けれど、だからこそ迷いもあった。
答えまでヴェリアが探し出し、与えてしまっていいのだろうか。
自分がどこから来たのか。
何があったのか。
自分は何者なのか。
それはアリエッタ自身の人生にかかわる問いだ。
ヴェリアが代わりに答えを探し出すことはできる。
だが、それよりも答えへ辿り着くために必要なことを教えてやりたい。
いつか自分の力で答えを見つけ、さらにその先まで自分の足で歩いていけるように。
そのための手助けなら、ヴェリアは喜んでする。
ヴェリアの脳裏に、床へ深く頭を下げた小さな背中が浮かんだ。
たった一人で高台までやって来た。
町で手伝いをして少しずつお金を貯め、お願いをするために焼き菓子まで用意してきた。
聞いたこともない異世界の話にも懸命に耳を傾け、連れていけないと言われれば、それでも自分にできることはないかと考えた。
そして最後には、魔術を教えてほしいと頭を下げた。
頑固で、真面目で、危なっかしいほどまっすぐな子だ。
話をするほど、ヴェリアはアリエッタという少女を好ましく思うようになっていた。
――わたしを、ヴェリアさんの弟子にしてください。
まっすぐ自分を見つめていたアリエッタの瞳が、脳裏によみがえる。
「さて、大変なことになりましたねえ」
言葉とは裏腹に、ヴェリアの口元には笑みが浮かんでいた。
十歳の弟子を迎えることになるなど、昨日までは想像すらしていなかった。
明後日から予定していた旅も根本的に変わることになる。
それでも心は浮き立っていた。
◆◆◆◆◆
紙飛空艇が湖を渡り終えた。
前方には高台が迫り、木々の間に見慣れた家が見えている。
紙飛空艇はゆっくりと高度を落としながら、家の上を大きく旋回した。
そのまま草地へ滑るように降りていく。
ヴェリアが地面へ降りると、白い紙飛空艇はみるみる小さくなり、元の一枚の紙へ戻った。
ヴェリアはそれを拾って懐にしまい、家へ向かった。
ふと、長年の友の顔が浮かんだ。
しばらく帰れなくなることをメルシアに連絡しておかなければならない。
弟子を取ったと言ったら彼女はなんと応えるだろう。
考えるだけで愉快だった。
家へ入ったところでヴェリアは足を止めた。
テーブルの上に包みが残されている。
アリエッタが持ってきた焼き菓子だった。
微かに甘い香りが漂ってきた。
ヴェリアは包みを手に取り、開いた。
焼き菓子へ手を伸ばしかけて、ふと止めた。
明日アリエッタと一緒に食べよう。
そんな考えが浮かんだ。
「最初の修行は、一緒にお茶を淹れることにしましょうか」
ヴェリアは楽しげに口元をほころばせ、焼き菓子の包みをそっと閉じた。
第1章を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
次回から第2章『風と飛空船』となります。
引き続きお楽しみいただければ幸いです。
安部ルシア




