第6話 「私から提案できるのは、ここまでです」
「座ってください」
ヴェリアに促されて、アリエッタは立ち上がり、もう一度椅子に腰を下ろした。
ヴェリアも向かいの椅子に座った。
テーブルの上で両手を組み、考え込むように目を閉じた。
アリエッタは黙ってヴェリアの言葉を待った。
窓の外から聞こえる水音だけが途切れることなく続いていた。
やがてヴェリアが目を開いた。
「アリエッタ」
「はい」
「一つ、確認したいことがあります」
ヴェリアがアリエッタの瞳をまっすぐ見た。
「魔術を覚えて、スーメリアへ渡る方法を身につけることができたら、あなたはどうしますか?」
「スーメリアに行きます」
「そのあとは?」
「覚えている風景を探します」
「どうやって?」
「え……」
「どうやって、その風景を探すのですか?」
「………」
アリエッタは口を開きかけて言葉に詰まった。
そこまでは考えていなかった。
スーメリアへ行くことばかり考えていた。
まず行かなければ、何も始まらない。
そう思った。
けれど、辿り着いたあとにどうすればいいのか。
あの風景がスーメリアのどこにあるのかなんて分からない。
誰に尋ねればいいのかも、どうやって探せばいいのかも分からない。
アリエッタは俯いた。
「一つ、提案があります」
ヴェリアの声を聞いて、アリエッタは顔を上げた。
「今から十年間、私があなたに異世界で生きていくために必要なことを教える、というのはどうでしょう」
「え……?」
アリエッタは目を瞬いた。
「十年……?」
「ええ」
ヴェリアは頷いた。
「先ほどお見せしたものは、私が観測している多重世界の地図の一部です。狭間の風や世界の位置を観測して、これからどう変化するのかを計算しています」
アリエッタはさっき見た無数の光と緑の流れを思い返した。
「私の計算では、スーメリアへ比較的安全に渡れる機会が次に訪れるのは、およそ十年後です」
「十年後……」
アリエッタは小さく繰り返した。
「それまでの間に、私が知識と技術を教えます。魔術だけではありません。異世界で生きていくために必要なことを、一通り」
ヴェリアの話を、アリエッタはすぐには理解できなかった。
十年後に、スーメリアへ渡れる機会がある。
それまでヴェリアから魔術を教えてもらえる。
それだけではない。
あの風景を探すために必要な知識や方法も教えてもらえる。
ヴェリアの言葉を一つずつ頭の中で繰り返して、ようやく分かってきた。
十年という長さは途方もなく思えた。
それでも、その先にスーメリアへ続く道がある。
何も見えなかった暗闇に、初めて一筋の光が差したような気がした。
けれど、そこまで考えてふと気づいた。
十年ものあいだヴェリアから教わるのだ。
それなら自分は何を渡せばいいのだろう。
「お金は……」
「いりません」
ヴェリアはすぐに答えた。
「代わりに、一緒に働いてもらいます」
「働く?」
「はい。私も生活がありますから」
ヴェリアはわずかに笑った。
「それと、先に言っておかなければならないことがあります」
言葉とともに、ヴェリアの表情が真剣なものへ変わった。
それを見て、アリエッタも姿勢を正した。
「私は明後日、この世界を出て、別の世界へ行きます」
「明後日?」
アリエッタが訊き返すと、ヴェリアは静かに頷いた。
「ええ。ですから、私について来るのであれば、この町を離れてあなたも一緒に異世界を巡ることになります」
「異世界を……」
アリエッタは小さく呟いた。
「教会の方や、この町の方とも、十年間会えません」
ヴェリアは言葉を区切りながら告げた。
この町を離れる。
みんなとも、十年間会えなくなる。
その言葉が重くのしかかった。
それまで、そんなことは考えてもみなかった。
神父や孤児院のみんな、町でお世話になった人たちの顔が浮かんだ。
「それから、旅がいつも安全だとは限りません。世界によっては危険な場所もありますし、予想していなかったことが起きることもあります」
ヴェリアは真剣な表情のまま言葉を続けた。
「もちろん、あなたを連れていく以上、私もあなたを守るために最善を尽くします。ただ、安全を保証するとまでは言えません」
ヴェリアはそこで一度息をついた。
「私から提案できるのは、ここまでです」
そう言って、ヴェリアは口を閉じた。
紅い瞳の中に、アリエッタの姿が小さく映っている。
アリエッタは膝の上で握った手を見た。
しばらく考えてから顔を上げた。
「それは……ヴェリアさんの弟子になる、ということでしょうか?」
「弟子……」
ヴェリアはその言葉を確かめるように繰り返した。
「そうですね。そう捉えていただいて構いません」
ヴェリアは頷いた。
十年間、ヴェリアの弟子になる。
十年という時間がどれほど長いのか、まだうまく想像できなかった。
町を離れて旅に出る。
遠い世界に行って、これまでとは全く違う生活を送る。
それがどれだけ大変なことなのかも、うまく想像できない。
それでも、さっき見た赤い光が頭に浮かんだ。
あの光の向こうに、自分の過去へ繋がる手がかりがあるかもしれない。
記憶に残っているたった一つの風景も、あるかもしれない。
そして今、そこへ辿り着くための道を、ヴェリアが示してくれている。
なら、答えは決まっていた。
「返事は明日でも――」
「やります」
ヴェリアが言葉を止めた。
「わたしを、ヴェリアさんの弟子にしてください」
アリエッタはまっすぐ紅い瞳を見つめた。
ヴェリアは一瞬、意外そうな顔をしたが、すぐに表情を改めた。
「分かりました」
ヴェリアが確かな声で応えた。
しばらくアリエッタの眼差しを受け止めてから、ふわりと笑った。




