第5話 「……どうして、そこまでして知りたいのですか?」
ヴェリアはアリエッタに目を向けた。
アリエッタは黙ったまま、ヴェリアから聞いた話を頭の中で整理していた。
白い光と赤い光。
その間を複雑に行き交う幾つもの風。
無理に渡ろうとすれば、途中で流されてしまう。
ヴェリアは壁まで歩き、杖を立てかけた。
「ヴェリアさん」
「はい」
「ヴェリアさんは、異世界に行けますか?」
「行けますよ」
ヴェリアは拍子抜けするほどあっさりと答えた。
「スーメリアにも?」
ヴェリアは少し間を置いた。
「……行こうと思えば、行けますよ」
アリエッタは目を瞬いた。
「風は大丈夫なんですか?」
「風の流れは一定ではありません。それに、世界の位置も常に変わっています」
ヴェリアは説明を続けた。
「たとえ世界同士が遠く離れていても、間に吹く風が穏やかになる時を見計らえば、渡ることができます」
その言葉にアリエッタの心臓が高鳴った。
「なら――わたしをスーメリアに連れて行ってもらうことはできますか?」
「それは……」
ヴェリアはそこで言葉を止めた。
考え込むように視線を床へ落とし、しばらく続きを口にしなかった。
「お菓子なら、もっと働いて買ってきます」
アリエッタが言うと、ヴェリアは顔を上げた。
「……お菓子?」
「依頼料です。さっきお渡ししようとした……」
アリエッタはテーブルを指さした。
最初に差し出した包みが置かれたままになっていた。
ヴェリアも包みへ目を向けた。
「……中を見てもいいですか?」
アリエッタが頷くと、ヴェリアはテーブルへ近づいて包みを手に取った。
包みを開くと、中から砂糖をまぶした焼き菓子が現れた。
「焼き菓子……」
ヴェリアは包みの中を見たあと、不思議そうにアリエッタへ目を向けた。
「どうしてお菓子を?」
「ヴェリアさんはお金を受け取らないって聞いたからです。だから代わりに食べ物や布を渡してるって。それで……砂糖菓子を一番喜ぶって聞いたので」
ヴェリアはもう一度包みの中へ目を落とした。
砂糖を使った菓子は、この辺りでは安いものではない。
「これ、高かったでしょう」
「はい」
「どうやってお金を用意したんですか?」
「町でお手伝いをして貯めました」
「どんな手伝いを?」
「薪を運んだり、お店の留守番をしたり、魚の仕分けをしたりしました」
ヴェリアは黙った。
やがて包みを閉じた。
「……アリエッタ」
「はい」
「あなたをスーメリアへ連れて行くことはできません」
ヴェリアはアリエッタの目を見て告げた。
アリエッタは息を呑んだ。
「お礼の問題ではないんです」
ヴェリアは静かに続けた。
「たしかに、時期を見計らえばスーメリアへ渡ることはできます。ただ、それは私一人で行く場合の話です」
ヴェリアの眼差しは柔らかかったが、どこか申し訳なさそうにも見えた。
「何があってもあなたを守り、無事にスーメリアまで連れて行けるという保証はありません」
「………」
「それに、仮に無事に辿り着けるとしても、連れて行くことはできません」
「どうしてですか?」
「スーメリアへ着いたあとの問題です。今のスーメリアがどんな場所であるか把握しきれていません」
「わたしを置いて帰っても構いません」
「そんなこと、できるわけないでしょう」
それまで柔らかかったヴェリアの声から温度が消えた。
「私に、何があるかも分からない場所で子供を置き去りにしろと言うのですか?」
紅い瞳がまっすぐアリエッタを見据えていた。
ヴェリアが怒っているのだとすぐに分かった。
「……すみません」
アリエッタは俯いた。
今の自分では、ヴェリアに守ってもらうことしかできない。
だから、連れて行ってもらえない。
お礼をいくら増やしても、それは変わらない。
ただ、ヴェリアは異世界へ行く方法を知っている。
なら――。
アリエッタは顔を上げた。
「ヴェリアさん」
「はい」
「魔術を教えてください」
「はい?」
ヴェリアが目を瞬いた。
「異世界へ行くための魔術を、わたしに教えてください」
アリエッタはその場に膝をついた。
「お願いします」
床に両手をつき、額が触れそうなほど深く頭を下げた。
「……アリエッタ、顔を上げてください」
「お願いします」
「アリエッタ……」
アリエッタは動かなかった。
しばらく、ヴェリアから言葉は返ってこなかった。
「……どうして、そこまでして知りたいのですか?」
ヴェリアが静かに訊いた。
アリエッタの指が床の上でわずかに動いた。
すぐには応えなかった。
胸の奥にしまってきた言葉が、喉元まで浮かんでは沈んだ。
長い沈黙のあと、アリエッタは伏せたまま口を開いた。
「……怖いからです」
一度口にすると、押し込めていたものが少しずつ溢れてきた。
「自分が誰なのか分からないのが、怖いです」
三年間ずっと心の底にあった思いを、アリエッタは初めて口に出した。
すぐそばで、ヴェリアがわずかに身じろぎする気配がした。
「どこで生まれたのかも、誰と暮らしていたのかも、何をしてきたのかも、何も分からない。わたしがどんな人間だったのかも分からないんです」
声が震えた。
「ずっと、真っ暗なところにいるみたいなんです」
アリエッタは床を見たまま続けた。
目の奥が熱くなってきた。
「何も見えなくて、どっちに行けばいいのかも分からなくて……」
言葉にするたび、勝手に涙が滲んできた。
アリエッタは床についた指に力を入れた。
「自分のことなのに、何も分からない。それが、とても怖いです」
声がだんだんと小さくなっていった。
涙をこぼさないように必死に堪えた。
「分からないことが、怖いです……」
最後は、絞り出すような掠れた声になった。
ヴェリアは何も言わなかった。
窓の外から、水の流れる音がかすかに聞こえてきた。
「お願いします」
アリエッタはもう一度言った。
「魔術を教えてください」
ヴェリアが微かに息を吐く音が聞こえた。
「顔を上げてください」
包み込むような柔らかい声だった。
「話をしましょう」
アリエッタはしばらく躊躇ったあと、ゆっくりと顔を上げた。
ヴェリアはなぜか、今にも泣きだしそうな顔をしていた。




