第4話 「世界は一つではありません。無数に存在しています」
アリエッタは考え込んだ。
誰かが自分に魔術をかけた。
それなら、覚えているあの風景も魔術の影響を受けているのだろうか。
そう考えたら、何を信じればいいのか分からなくなって、地に足がつかないような感覚がした。
目の前のカップのお茶がかすかに揺れているように見えた。
ヴェリアは何も言わず、カップを手に取ってお茶をすすった。
「……ヴェリアさん」
ヴェリアがカップから口を離した。
「わたしの覚えている場所は、本当にあるんでしょうか」
ヴェリアはカップを置いてアリエッタを見た。
「あります」
ヴェリアがはっきりと言い切った。
「あなたが見せてくれた風景は、間違いなくあなた自身の記憶です。誰かに作られたものでも、書き換えられたものでもありません」
ヴェリアは一つひとつ確かめるように言葉を重ねた。
「あなたが実際に見た場所です。それは私が保証します」
紅い瞳がまっすぐアリエッタを見つめていた。
暗く沈んでいた胸の奥に、小さな明かりが灯った。
この人は嘘を言っていない。
なぜだかそれが信じられた。
アリエッタは俯いた。
場所はある。
自分が見た景色だ。
なら、もう一つ聞きたいことがある。
「スーメリアに……行くことはできますか?」
ヴェリアはすぐには答えなかった。
「行くことはできます。ただ……」
ヴェリアは言葉を止めて、アリエッタをちらりと見た。
しばらく考えるように視線を落としたあと、椅子を引いて立ち上がった。
「言葉で説明するより、見ていただいた方が分かりやすいですね」
そう言って、壁まで歩き、立てかけてあった杖を手に取った。
杖を携えて部屋の中央に移動した。
「こちらへ来てください」
促されてアリエッタも椅子を離れ、ヴェリアの前へ向かった。
ヴェリアは手にした杖を持ち上げると、その先で床を軽く叩いた。
トン、と乾いた音が響いた。
つぎの瞬間、杖の先から暗闇が広がった。
黒い影のようなものがアリエッタの足元へ迫る。
「わっ」
アリエッタは咄嗟に後ずさった。
暗闇は床を覆い、壁を駆け上がり、天井を呑み込んだ。
部屋の中が夜のように真っ暗になった。
アリエッタはヴェリアに身を寄せた。
やがて、ただの暗闇ではないことに気づいた。
小さな光が一つ、闇の中に浮かび上がった。
それを追うように次々と光が灯り、頭上から足元まで、アリエッタの周囲を埋めていった。
振り返ると、背後にも無数の光が瞬いていた。
まるで満天の星空の中に立っているかのようだった。
「わあ……」
思わず声が漏れた。
これが魔術。
目の前に広がる光景に、アリエッタはただ見入っていた。
「いま見えている星のような光は、それぞれが一つの世界を表しています」
ヴェリアの声が星空の中に静かに響いた。
「世界は一つではありません。無数に存在しています」
アリエッタは言葉もなく周囲を見回した。
光はさまざまな色をしていた。
白く輝くものもあれば、淡く色づいたものもある。
上も下も分からない空間の中を、色とりどりの光が漂っている。
「そして、世界と世界の間には何もないわけではありません」
ヴェリアが杖をゆっくりと持ち上げた。
杖の先に据えられた珠が緑色に輝き、そこから無数の光の粒が溢れ出した。
光の粒は二人の周囲へ広がると、やがて淡い緑色の流れを形作った。
煙のように揺らめき、薄い布のようにたなびきながら、いくつもの流れが空間を縦横無尽に行き交った。
「ここには、さまざまな方向へ風が吹いています」
「風……?」
「ええ。いま見えている緑の光は、世界と世界の間に吹く風の流れを表しています」
アリエッタは揺らめきながら行き交う緑の光の流れを目で追った。
流れは不規則に形を変え、重なり、離れ、また別の方向へ伸びていく。
やがて少しずつ光を失い、闇の中へ溶けるように消えていった。
あとには星空のような無数の光だけが残った。
「世界そのものも風に乗って漂っています。ですから、世界同士の位置はいつも同じではありません。近づくこともあれば、遠く離れてしまうこともあります」
アリエッタは光の一つを目で追った。
ゆっくり漂っていた光が別の光へ近づいたかと思うと、向きを変えて違う方向へ離れていった。
その向こうでは別の光が右から左へ横切っていく。
てんでばらばらの動きだった。
どの光にも決まった道があるようには見えない。
「私たちが今いる世界が、これです」
ヴェリアが指を伸ばした。
すぐ近くに浮かんでいた白い光がわずかに強く輝いた。
アリエッタはその小さな光を見つめた。
見たところ、周囲に浮かぶ無数の光とたいして変わらなかった。
アリエッタたちが暮らしている町も、湖も、教会も、この小さな光の中にあるのだろうか。
「そして――」
ヴェリアの指が別の方向を示した。
「スーメリアは、これです」
少し離れたところに浮かんでいた赤みを帯びた光が強く輝いた。
白い光と赤い光。
アリエッタは二つの光を見比べた。
手を伸ばせば届きそうなほど近くにある。
「この二つの世界の間にも、いくつもの風が吹いています」
ヴェリアが再び杖を動かした。
先ほどと同じように珠が緑色に輝き、無数の光の粒が溢れ出した。
光の粒は白い光と赤い光の間へ広がり、いくつもの緑の流れを形作った。
流れは煙のように揺らめきながら二つの光の間を複雑に行き交った。
大きく弧を描くものもあれば、途中で別の流れと重なってまったく違う方向へ伸びていくものもあった。
どの流れも、白い光から赤い光へまっすぐには向かっていない。
「ですから、いまスーメリアへ渡ろうとしても、途中で風に流されてしまいます」
「流されたら……どうなるんですか?」
「狭間――世界と世界の間にある空間を、行き先も分からないまま漂うことになります」
ヴェリアは淡々と口にした。
それ以上なにも言わなかったが、アリエッタにはとても恐ろしいことに思えた。
アリエッタはもう一度二つの光を見た。
二つの光は、ほんの数歩しか離れていない。
けれど、その間にはいくつもの緑の流れが複雑に入り乱れている。
手を伸ばせば届きそうなほど近いのに、果てしなく遠く感じた。
やがて緑の流れが消え、周囲に浮かんでいた光も一つずつ薄れていった。
辺りを覆っていた暗闇もゆっくりと薄れていく。
足元から焦げ茶色の床が浮かび上がり、壁や天井も少しずつ輪郭を取り戻していった。
気づけば、アリエッタはヴェリアと部屋の中に立っていた。




