第3話 「わたしに魔術をかけた人は、悪い人なんですか?」
家へ戻り、アリエッタは先ほどと同じ椅子に腰を下ろした。
テーブルのカップからまだ細い湯気が立っていた。
「遠慮せずにどうぞ」
ヴェリアがカップを示した。
「はい。いただきます」
両手でカップを包み、一口飲んだ。
温かさが喉から胸へゆっくりと落ちていく。
飲み込んだお茶がアリエッタの乾いた身体にじんわりと滲みこんでいった。
向かいに座ったヴェリアもカップを持ち上げて一口すすると、ふうっと微かに息を吐いた。
「さて……どこからお話ししましょうか」
ヴェリアはカップを置いて、残ったお茶をしばらく眺めていた。
やがてアリエッタに目を向けた。
「まず、あなたには記憶阻害の魔術がかけられています」
アリエッタは目を瞬いた。
「記憶……阻害……?」
「あなたが三年前より前のことを思い出せないのは、その魔術の影響です」
「わたしに……魔術が?」
アリエッタはヴェリアを見つめた。
「はい。間違いありません」
ヴェリアが頷いた。
しばらくのあいだ、アリエッタはヴェリアの言葉の意味をうまく呑み込めなかった。
アリエッタにとって、記憶がないことは三年前から当たり前だった。
なぜ思い出せないのかは何度も考えた。
けれど、魔術によって思い出せなくされているなど一度も考えたことはなかった。
「その術に阻まれて、先ほど見せてもらった風景に関する情報を探ることができません」
ヴェリアの言葉を聞いて、胸の奥にあった希望が急速にしぼんだ。
「そう……ですか……」
アリエッタは俯いた。
町の人たちの困りごとをいくつも解決してきたヴェリアなら、何か見つけてくれるかもしれない。
普通の人にはできなくても、魔術を使えば自分の記憶の中にある風景も探し出せるかもしれない。
そう期待していた。
そう思って依頼料を用意した。
山を登ってきた。
自分がどこから来たのか。
自分が何者なのか。
今日、わかるかもしれないと胸を高鳴らせていた。
その期待が、今は胸の奥で重く沈んでいた。
「ただ、分かったこともあります」
ヴェリアの言葉にアリエッタは顔を上げた。
「あなたにかけられている魔術が、どこで使われているものなのか」
「……魔術をかけた場所がわかるんですか?」
「いいえ。使った場所までは分かりません」
ヴェリアは小さく首を振った。
「分かるのは、その魔術がどの世界のものか――いわば、魔術自体の出自です」
「世界……?」
「あなたにかけられている術はこの世界のものではありません」
アリエッタはヴェリアを見つめた。
「異世界の魔術です」
イセカイ――。
聞いたことのない言葉だった。
アリエッタはまたしても言葉の意味を呑み込めなかった。
唇をきゅっと結んだ。
理解しようとすればするほど頭が空回りして、額にじんわりと熱がこもってくる。
「大丈夫ですか?」
ヴェリアが心配そうにアリエッタへ声をかけた。
「……はい。大丈夫です。続きを聞かせてください」
「……分かりました」
ヴェリアは頷いたあと、座りなおした。
「世界は一つではありません。私たちが今いるこの世界とは別にいくつもの世界が存在しています。そうした異なる世界をまとめて異世界と呼んでいます」
「はい」
返事はしたものの、まだよく分からなかった。
それでもアリエッタは聞き逃すまいとヴェリアを見つめた。
「魔術の仕組みも世界によって違います。同じような魔術でも、術式の組み方や魔力の扱い方が異なります」
ヴェリアはアリエッタの様子を見ながらゆっくりと続けた。
「あなたにかけられている記憶阻害の術は、この世界のものではありません。スーメリアと呼ばれる世界で使われている術式です」
「スーメリア……」
アリエッタは小さく繰り返した。
初めて聞く名前だった。
ヴェリアが頷いた。
「それじゃあ……わたしは異世界から、その……スーメリアから来たんですか?」
おそるおそる訊いてみた。
「そこまでは断定できません」
ヴェリアは小さく首を振った。
「ただ、あなたがスーメリアにいた可能性は高いでしょう。そこで魔術をかけられたと考えるのが自然です」
知らない世界が、自分の過去とつながっている。
アリエッタは自分の手を見下ろした。
「スーメリア……」
アリエッタはその言葉をもう一度繰り返した。
しばらく沈黙が流れた。
アリエッタは顔を上げた。
「誰かがわたしに魔術をかけたんですよね」
「はい」
「その魔術は、スーメリアっていう世界のものなんですよね」
「そうです」
アリエッタは少し考えた。
「じゃあ、わたしに魔術をかけた人もスーメリアの人なんですか?」
「その可能性は高いです。ただ、それも断定はできません」
アリエッタは膝の上で手を握った。
「どうしてその人は、わたしの記憶を消したんでしょうか」
「それは、今ある情報だけでは何とも言えません」
ヴェリアは静かに首を振った。
「ただ、一つ大事なことがあります」
「大事なこと?」
「あなたの記憶は、消されたわけではありません。魔術によって塞がれて、思い出すことができないようにされているだけです」
「えっ」
アリエッタは思わず声を上げた。
「ちょ、ちょっと待ってください。わたしの記憶は消えてないんですか?」
「はい。記憶そのものは残っています」
ヴェリアは頷いた。
アリエッタはヴェリアを見つめた。
三年前より前のことはすべて失ってしまったと思っていた。
けれど、記憶は残っている。
なくなったわけではない。
今も自分の中にある。
「じゃ、じゃあ、その魔術を解いたら、昔のことを思い出せますか?」
アリエッタは身を乗り出した。
「おそらく」
胸が大きく鳴った。
「わたしにかかっている魔術を解くことはできますか?」
ヴェリアは少し黙った。
「……できますが、おすすめはしません」
「どうしてですか?」
「長い時間が経ったことで、術が記憶に強く定着しています。かけられた直後ならともかく、今から剥がすのは危険です」
「危険?」
「魔術を剥がす途中で脳や精神を傷つける可能性があります。私の力だけでは安全に術だけを取り除くことはできません」
アリエッタは黙った。
手の届くところにあるように見えた記憶が、また遠ざかったような気がした。
「どうして、そんな……」
「かなり乱暴に組まれた術式です」
ヴェリアは静かに答えた。
「ところどころに綻びがあります。あの風景だけが記憶に残っているのも、そのためでしょう」
「じゃあ……」
アリエッタは眉をひそめた。
「わたしに魔術をかけた人は、悪い人なんですか?」
ヴェリアはすぐには答えなかった。
「それも断定できません」
少し考えてから言葉を続けた。
「ただ、あなたを傷つけることが目的ではなかったと思います」
「どうして分かるんですか?」
「あなたにかけられた術には、記憶を阻害する術式だけでなく、あなた自身を保護するための術式も組み込まれています」
「保護?」
「ええ。術をかけるときに記憶へ深く入り込みすぎてあなた自身を傷つけないようにするためのものです」
アリエッタは首を傾げた。
乱暴なのに自分を傷つけないようにしてある。
ますます分からなくなった。
誰かが自分の記憶を塞いだ。
記憶を消さず、自分を傷つけないようにしながら。
いったい誰が、何のために――。




