第2話 「だいぶ複雑なことになっているようです」
ヴェリアは一年ほど前にふらりと町に現れた。
魔術師を名乗り、湖を見下ろす高台に一人で暮らし始めた。
魔術師という存在は、この国の人間であれば誰もが知っている。
けれど、実際に魔術師と会ったことのある者は町にはほとんどいなかった。
魔術師の数自体が少ないうえに、その多くが都にいて国に仕えており、田舎の町の人々にとっては遠い存在だった。
そのため、初めのうちは町の人々も遠巻きにヴェリアの様子をうかがっていた。
そんなある日、森へ遊びに行った子供が夕方になっても帰ってこなかった。
心配した大人たちが集まり、手分けして森を探そうとしていたところに、たまたまヴェリアが居合わせた。
事情を聞いたヴェリアはどこからともなく杖を取り出した。
杖の先で地面をトン、とひと突きすると、森のどの辺りにいるのかを詳しく話し始めた。
ヴェリアが告げた場所へ大人たちが向かうと、はたしてそこに子供がいた。
森で道に迷い、歩き疲れて木陰で休んでいたのだ。
それをきっかけに、失くしたものを探したり、原因の分からない不思議な出来事を調べたりと、頼みごとをする人が増えていった。
ヴェリアはそれらをことごとく解決していった。
評判は町中へ広がり、温和な性格も相まって、ヴェリアは町の一員として受け入れられていった。
いつしか、困ったことがあれば高台の魔術師を訪ねればいいと、町で言われるようになった。
アリエッタがヴェリアを訪ねたのも、そんな話を耳にしたからだった。
「どうぞ、入ってください」
促されるまま、アリエッタは家の中へ入った。
ヴェリアは小さなテーブルのそばにある椅子を示した。
「どうぞ、かけてください」
「はい」
編み籠を膝に置いて腰を下ろし、アリエッタはそっと室内を見回した。
壁も床も、置かれた家具も、焦げ茶色の木でできていた。
どれも古びてはいるものの、よく磨かれて艶があり、不思議と心が落ち着いた。
ただ、部屋には物がほとんどなかった。
装飾の施された分厚い本が棚に数冊並び、珠の据えられた杖が壁に一本立てかけられているだけだった。
人が暮らしている家というより、引っ越しの途中のように見えた。
やはり噂は本当だったらしい。
ヴェリアはもうすぐこの町を離れる。
その噂を聞いて、アリエッタは慌てて今日ここへ来たのだった。
「すみません。ほとんど片付けてしまっていて」
奥から戻ってきたヴェリアが申し訳なさそうに笑った。
「こんなお茶しか出せませんが」
テーブルにカップが置かれる。
白い湯気が立ち上り、ほのかな香りが鼻先をくすぐった。
「いいえ。ありがとうございます」
アリエッタは恐縮して頭を下げた。
ヴェリアが向かいの椅子に腰を下ろした。
「あ、あの、これ」
アリエッタは編み籠の中から包みを取り出した。
「依頼料です」
アリエッタは包みを両手で差し出した。
ヴェリアは包みとアリエッタの顔を交互に見た。
「依頼料?」
「はい。お願いをするための」
けれど、ヴェリアはなかなか手を伸ばさなかった。
「あの……」
「これは、まだ受け取れません」
ヴェリアは困ったように笑った。
「私は仕事として相談を聞いているわけではないんです。皆さんから受け取っているものも、依頼料ではなく、お手伝いしたお礼としていただいているだけで……」
「そうなんですか?」
「はい。ですから、まずはお話を聞かせてもらえますか?」
「わかりました」
アリエッタは差し出していた包みを引き戻し、目の前のテーブルに置いた。
息を整え、説明するために考えてきた内容を頭の中から引き出した。
「三年前、わたしはこの町の人に拾ってもらいました」
アリエッタは膝の上の編み籠の持ち手を握った。
「湖のほとりに倒れていたところを近くに住む人に見つけてもらいました。そのあと教会に預けられて、それからずっと孤児院で暮らしています」
アリエッタはヴェリアの顔を見た。
紅い瞳は静かにアリエッタを見つめていた。
「それより前のことは、何も覚えていません。名前もです」
ヴェリアの眉がわずかに動いた。
「アリエッタっていう名前も、神父さまにつけてもらいました。年齢も、たぶん七歳くらいだろうって。それで……今は十歳です」
アリエッタは視線を下げた。
自分のことなのに、他人の話をしているようだった。
生まれた場所も知らない。
誰に育てられたのかも知らない。
本当の誕生日さえ分からない。
「でも、一つだけ覚えているものがあります」
アリエッタは伏せていた目を上げ、ヴェリアを見た。
「風景です」
「風景?」
アリエッタは頷いて、編み籠の中から今度は丸めた紙を取り出した。
結んでいた紐をほどき、テーブルの上に広げる。
記憶に残る風景を描いた一枚の絵だった。
「こんな風景です。下手で分かりにくいですけど」
アリエッタは紙をヴェリアの方へ滑らせた。
ヴェリアは手に取り、描かれた絵に目を落とした。
湖の風景だった。
水面の上を伸びる桟橋の先に小さな東屋がある。
広い湖の向こうには青く霞んだ山並みが連なり、湖畔の木々の間には細長い塔が一本立っている。
アリエッタの記憶に残るたった一つの風景だった。
「ここがどこなのか分かれば、わたしがどこから来たのかも分かるかもしれないと思って」
アリエッタは付け加えた。
「……なるほど」
ヴェリアが目を落としたまま呟いた。
「……この町の湖ではないですね」
「はい」
アリエッタは頷いた。
ヴェリアはそれきり何も言わなくなった。
アリエッタも黙って待った。
窓の外から、水が落ちる音が小さく聞こえてきた。
やがてヴェリアが顔を上げた。
「アリエッタ」
「はい」
「少し、ついて来てください」
ヴェリアは絵をテーブルに置いて立ち上がった。
布を一枚持ってきて玄関へ向かう。
アリエッタも椅子を離れ、ヴェリアに続いた。
◆◆◆◆◆
外へ出ると、傾いた陽が木々の間から差し込んでいた。
草地に落ちた光はわずかに琥珀色を帯びている。
ヴェリアは家の脇にある池へ向かっていく。
池の周囲は大小の岩に囲まれ、山肌から落ちる水が軽やかな音を立てていた。
ヴェリアは池の縁で足を止め、そばの岩に布を置いた。
水は透きとおっていて、底に沈んだ石まではっきりと見えた。
「靴を脱いで、この池に入ってみてください」
「え……」
「今からあなたの記憶を少し見せていただきます」
アリエッタは目を瞬いた。
「記憶を……ですか?」
「ええ。この池に、あなたが思い浮かべる風景を映します」
「池に……?」
アリエッタは足元の水を見下ろした。
なんの変哲もないただの池だ。
ここにアリエッタの記憶を映すという。
本当にそんなことができるのだろうか。
戸惑いながらも言われた通り靴を脱いだ。
池を囲む岩に足をかけ、そっと水の中へ降りる。
両足がくるぶしまで水に浸かった。
水は驚くほど冷たくて、思わず肩をすくめた。
「そのまま、前を向いていてください」
「はい」
アリエッタは池の中央へ顔を向けた。
ヴェリアが背後に近づく気配がした。
「目を閉じて、力を抜いてください」
ヴェリアの声が耳のすぐ後ろから聞こえた。
言われるままアリエッタは目を閉じた。
「肩に触れますね」
「はい」
両肩に柔らかい重さがかかる。
羽が乗ったような軽い感触だった。
肩からじんわりと温かさが伝わってくる。
自然と身体の力が抜けていった。
これが魔術なのだろうか。
アリエッタは目を閉じたままそんなことを思った。
「そのまま、記憶の風景を思い浮かべてみてください」
「はい」
アリエッタは小さく息を吸った。
記憶に残っているたった一つの風景。
広い湖。
桟橋の先にある小さな東屋。
遠くに霞む山並み。
木々の間に立つ細長い塔。
アリエッタは瞼の裏に一つひとつ思い浮かべた。
***
ヴェリアはアリエッタの背後に立ったまま水面を見つめた。
掌からアリエッタの身体へそっと魔力を流す。
アリエッタの足元から波紋が生まれた。
幾重にも重なり、水面を揺らしながら池全体へ広がっていく。
やがて揺らめく水面にぼんやりと風景が浮かび上がってきた。
広い湖。
桟橋の先に建つ小さな東屋。
遠くに霞む山並み。
木々の間に立つ細長い塔。
先ほど見た絵と同じ風景だった。
ただ、絵よりもはるかに鮮明だった。
どこかに実在する景色がそのまま映しだされているかのようだった。
ヴェリアは黙って水面を見つめる。
やがて細かなさざ波が立ち、映し出されていた風景が揺らぎ始めた。
湖も東屋も山並みも、水面の中で崩れ、少しずつ消えていく。
あとには元の澄んだ池だけが残った。
「ふむ……」
ヴェリアは呟いた。
「ヴェリアさん……?」
アリエッタの小さな声が聞こえた。
「もう目を開けてもいいですよ」
ヴェリアはアリエッタの肩から手を離した。
***
アリエッタは振り返ってヴェリアを見上げた。
「……どうでしたか?」
アリエッタが訊くと、ヴェリアは静かに頷いた。
「だいたい事情はわかりました」
「ほ、本当ですか」
アリエッタの声が弾んだ。
「ええ。ただ――」
ヴェリアがわずかに眉間にしわを寄せた。
「だいぶ複雑なことになっているようです」
「複雑?」
ヴェリアは応えず、池の縁の岩に置いていた布を取ってアリエッタへ差し出した。
「ひとまず中に戻りましょう。説明はそこでします。冷たかったでしょう」
「は、はい」
アリエッタは布を受け取り、濡れた足を拭いた。
事情がわかった。
その言葉に喜んだのも束の間、今度は『複雑』という言葉が胸に引っかかった。




