第10話「私は、魔術も翼のようなものだと考えています」
見渡すかぎりの大草原の中を、アリエッタとヴェリアは並んで歩いていた。
二人は太陽のある方角に向かっていた。
ヴェリアによればその方向に大きな街があるらしい。
吹き抜ける風がアリエッタの頬を優しく撫でた。
アリエッタは歩きながら辺りを見回した。
よく晴れた青空には白い雲がゆっくりと流れ、地平線には青い山並みが連なっていた。
足元ではくるぶしほどの高さの草が風に揺れ、その間には白や黄色の小さな花が咲いていた。
遠くから鳥のさえずりが聞こえてくる。
草を踏むたびにサクサクと音が響いた。
見知らぬ世界へやって来たはずなのに、空も鳥も、花も草も、昨日まで暮らしていた場所と変わらなかった。
「先生、ここが異世界なんですか?」
「ええ、そうですよ」
ヴェリアは頷いた。
「もっと知らないものばかりだと思っていました」
「人が住んでいるところはそんなに大きく変わりません」
ヴェリアは周囲の草原を見渡した。
「違いがあるとすれば魔力の量ですね」
「魔力……」
アリエッタは言葉を繰り返した。
魔術師の弟子になったものの、魔力が何なのかまだよく分かっていなかった。
いや、そもそも自分にも魔術が使えるようになるのだろうか。
町にはヴェリア以外の魔術師はいなかったし、ほかの魔術師に会ったことがあるという人もほとんどいなかった。
「あの、先生。今更なんですけど、わたしも魔術が使えるようになりますか?」
「なりますよ」
あまりにもあっさりとした返事にアリエッタは目を瞬いた。
「ど、どうやったら使えますか?」
「まずは魔力を感じることですね」
「魔力を……感じる?」
アリエッタは首をかしげた。
「魔力というのは私たちの周りにあるものなんです。目には見えませんが世界は魔力で満ちています」
ヴェリアは目の前に広がる草原へ目を向けた。
「そして、私たちの身体には、その魔力を取り込んだり、外へ出したりするための器官があります」
「器官?」
「魔孔といいます。身体の表面にたくさんある小さな穴のようなものですね」
「まこう……」
アリエッタは呟いて、自分の手のひらを見つめた。
「手にもあるんですか?」
「ええ、もちろん」
アリエッタは手のひらを裏返したり、指を広げたりしてみた。
けれど、それらしいものは見つからなかった。
「見えません……」
「目では見えないものなんです」
ヴェリアは微笑んだ。
「魔孔は誰にでもあります。ただ、ほとんどの人は閉じたままなので、魔力を感じたり、自由に出し入れしたりすることができません。ですから、まずは魔孔を開く練習から始めます」
「魔孔を開く……」
「実は、稀に生まれつき魔孔が開いている人もいるんです」
「生まれつき、ですか?」
「ええ。でも、多くの世界では魔孔の存在さえ知られていません。ですから、生まれつき魔孔が開いている人だけが魔術師になれると考えられているんです」
「生まれつき魔孔が開いていない人も、訓練すれば開くんですか?」
「ええ」
ヴェリアは頷いた。
「最初は少し時間がかかるかもしれませんが、一度魔孔の存在を感じ取って、意識できるようになれば、あとは簡単ですよ」
「魔孔が開いたら、魔術を使えるんですか?」
「いいえ。まずは魔力を取り込んで身体に蓄える練習ですね。それから、蓄えた魔力を外へ出せるようにならなければいけません」
「取り込んで、蓄えて、外へ出す……」
アリエッタは指を折りながら数えた。
「それができるようになったら、魔術を使うための準備が整います」
「準備……ですか?」
「ええ。実は、人間はまだ生身で魔術を使えないんです」
「魔術を使えない……ですか?」
さっきは魔術を使えるようになると言っていたはずなのに。
どういうことだろう。
「魔術の本質は魔力の変換と操作――魔力を別のものに変えることと、自由に操ることです」
「別のものに変えること……ですか?」
「ええ。魔力はさまざまなものに変化する性質を持っています。水にも炎にも、石にも変わることができるんですよ」
「石にもなるんですか?」
「そうですよ。人間の身体には魔力を取り込んで蓄えたり、外へ出したりする仕組みがあります。でも、魔力を変えたり操ったりする仕組みは十分に発達していないんです」
「………」
アリエッタは首をかしげた。
「魔力を水に、人間の身体を池に喩えてみましょう」
「水と、池ですか?」
「ええ。川は世界中のいろんな場所に流れています。その川から水を引いてくれば、池に水を貯めておくことができますよね」
「はい」
「川と池の間にある水門が魔孔です。水門を開けば水が流れ、閉じれば止まります」
「なるほど……」
「でも、池そのものには、水を思いどおりに氷や蒸気に変えたり、宙に浮かせて自由に操ったりすることはできません」
「水を貯めたり流したりはできても、変えたり操ったりはできない……」
アリエッタは少し考えた。
「川から池に水を引くことは、川の水を人間が飲むようなものですか? 飲んで体に蓄えて……おしっこで出す。喩えは汚いですけど」
ヴェリアは大きく頷いた。
「そうですね。いい理解ですよ」
褒められて、アリエッタは思わず笑みを浮かべた。
「魔力も、飲んだ水と同じように、身体に蓄えておくことができます。蓄えられる量は個人差がありますが、訓練次第で多くすることができます」
ヴェリアの説明にアリエッタは頷いた。
少し考えてから、再びヴェリアを見上げた。
「でも、魔力を貯めておくことに何か意味があるんですか?」
「もちろんありますよ。魔力はどこにでもありますが、魔術に必要な量を集めるには時間がかかるんです。身体に蓄えておけば、必要なときに必要な量の魔力を取り出せますから」
「ああ……」
アリエッタは納得した。
「人間は、魔力を持って歩く水瓶みたいなものなんですね」
「そうです。アリエッタは理解が早いですね」
また褒められてアリエッタは頬を緩めた。
けれど、すぐに新たな疑問が浮かんだ。
「でも、人間は魔力を変えたり操ったりすることができない……その、魔術を使えないんですよね?」
「ええ。そこで、人間は魔導具というものを使います」
「魔導具?」
「魔力を目的に合わせて変換したり、操作したりするための道具です」
ヴェリアは手にしていた杖を少し持ち上げた。
「例えば、この杖ですね」
ヴェリアは足を止め、杖を両手に載せた。
アリエッタも足を止め、杖に目を向けた。
木製の杖には幾重にも蔦が絡みついていた。
蔦は先端で枝分かれし、拳ほどの大きさの透明な珠を包み込んでいる。
枝の隙間から澄んだ珠が覗き、そのすぐ下には赤い房飾りのついた小さなお守りが揺れていた。
「この珠には、術式というものが刻まれています」
ヴェリアは珠を指した。
「術式とは、魔力をどのように変化させ、操るかを定めたものです。例えば、魔力を火に変える、火を大きくするといった命令が組み込まれています。術式によって、さまざまなことができるんですよ」
「へえ……」
アリエッタは顔を近づけ、珠をまじまじと眺めた。
透明な珠には何も刻まれていないように見える。
「術式はどこにあるんですか?」
「珠の表面ですよ。少し見やすくしましょうか」
ヴェリアが珠に指を添えると、透明な珠が淡い青色の光を放ち始めた。
その表面に、金色の細かな文様が浮かび上がる。
幾何学的な模様と曲線が複雑に組み合わさり、珠の表面をびっしりと覆っていた。
「わあ……」
アリエッタは目を輝かせた。
「きれい……」
アリエッタは金色の文様をじっと見つめた。
ヴェリアは杖を持ち直し、蔦の部分を指でなぞった。
「こうした杖では基本的に掌から魔力を送り込みます。魔力は蔦を通って珠に入り、術式に従って変化したあと、杖の先端から放出されるんです」
アリエッタはヴェリアの指先を目で追った。
「持ってみますか?」
「いいんですか?」
「ええ、どうぞ」
アリエッタは差し出された杖を両手で受け取った。
思っていたよりも軽かった。
手元から先端へと視線を移し、青く輝く珠をもう一度眺めた。
「実は、その珠にはもう一つ秘密があるんです」
「秘密?」
「魔獣という生き物を知っていますか?」
「魔獣……」
アリエッタはその名前を聞いたことがあった。
普通の獣とは違い、火を吐いたり、風を起こしたりする恐ろしい怪物だという。
けれど、実際に見たことはなかった。
「名前は知っています。でも、見たことはありません」
「魔獣の身体にはコアと呼ばれる器官があります。コアには魔力を変化させる働きがあって、魔獣はそれを使ってさまざまな現象を起こすんです」
「それが、この珠と関係あるんですか?」
「ええ。その珠は、魔獣から取り出したコアを加工したものなんですよ」
「魔獣の身体にくっついているんですか?」
「いいえ。魔獣の身体の中にあるものです」
アリエッタは驚いて、手にした杖の珠を見つめた。
こんな大きな珠が身体の中にあるのか。
「人間は魔獣のコアを利用して、魔力を操るための道具を作り出したんです。コアに刻む術式も長い年月をかけて研究されてきました。さまざまな術式を組み合わせたり、新しい術式を作ったりすることもできるんですよ」
「自分で作ることもできるんですか?」
「ええ。もっとも、それにはたくさん勉強しなければいけませんけどね」
アリエッタは頷いた。
それから杖を両手でヴェリアに差し出した。
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
ヴェリアは杖を受け取った。
珠の青い光が消えて元の透明な姿に戻った。
アリエッタはその杖をもう一度眺めた。
「わたしも、いつかこんな杖を使えるようになりますか?」
「もちろんですよ」
ヴェリアは頷いた。
「この世界は魔力が豊富ですし、魔術の研究も進んでいます。アリエッタが魔術を学ぶにはちょうどいい場所なんです」
ヴェリアはアリエッタを見て微笑んだ。
「住む場所が決まったらアリエッタの杖も作りましょう」
「はい!」
アリエッタが元気よく返事をすると、ヴェリアは目を細めた。
二人は再び草原を歩き始めた。
自分の杖を持てると思うと、自然と足取りまで軽くなった。
杖を振ると、その先からきらきらと光の粒が舞い上がる。
そんな姿を思い描くと頬が緩んだ。
ふと、先ほどの出来事を思い出した。
「あの、先生……」
アリエッタはおずおずと話しかけた。
「はい、どうしましたか?」
「わたし、空を飛ぶ魔術を使えるようになりたいです」
ヴェリアは目を瞬いた。
「あ、もちろん、異世界へ行く魔術を覚えるのが最優先ですけど」
アリエッタは慌てて付け加えた。
「さっき、空にいたときに見た景色がすごくきれいで……。先生と初めて会った日に紙飛空艇から見た夕暮れも、とっても素敵だったんです」
ヴェリアは口元をほころばせた。
「さっきは怖くなかったですか?」
「怖かったです」
アリエッタは素直に答えてから、青空を見上げた。
「でも、途中で先生の声を聞いたら落ち着きました。それに……」
「それに?」
「……ちょっと楽しかったです」
アリエッタは含羞んだ。
ヴェリアはもう一度目を瞬いたあと、声を立てて笑った。
つられてアリエッタも笑った。
「いいですよ。空を飛ぶ魔術もちゃんと教えますからね」
「やったあ!」
アリエッタは両手を上げて喜んだ。
ヴェリアはふふっと笑った。
「ただ、空を飛ぶのはちょっと大変なんですよ」
「そうなんですか?」
「ええ。私たちには鳥のような翼がありませんから」
ヴェリアは空を見上げた。
アリエッタもその視線を追うと、遠くに一羽の白い鳥が飛んでいた。
「鳥はどうして空を飛べると思いますか?」
「翼があるから……ですよね?」
「ええ。でも、翼があるだけでは飛べません。鳥は翼を使って空気の力を借りているんです」
鳥は翼をわずかに傾け、ゆるやかに弧を描いた。
「鳥にとって、空は道であり、翼はその道を進むための足のようなものなんですよ」
白い鳥は数回羽ばたくと、翼を大きく広げ、青空を滑るように進んでいった。
「私は、魔術も翼のようなものだと考えています」
「魔術が翼……ですか?」
「ええ。世界には、まだ知られていない道がたくさんあります。魔術は、そうした道を進むための手段なんです」
「道はどうやって見つけるんですか?」
「世界をよく観察し、仕組みを知ることです。知識と発想があれば、見えなかった道も見つけられます」
ヴェリアはアリエッタに微笑みかけた。
「ですから、魔術だけでなく、世界のこともたくさん勉強しましょうね」
アリエッタは思わず息をのんだ。
ヴェリアの言っていることはまだよく理解できなかった。
けれど、覚えなければならないことがたくさんあるのはわかった。
「……が、頑張ります」
「ふふ。そんなに肩に力を入れなくても大丈夫ですよ。世界の仕組みを知るのは楽しいですよ」
ヴェリアは微笑んだ。
「この世界では、自然の仕組みを生かして、魔術師でなくても空を飛べるようになったんですよ」
「えっ?」
アリエッタは驚いてヴェリアを見た。
「飛空船というものを発明したんですよ」
「飛空船?」
「魔力と風の力を利用して空を飛ぶ船です」
ヴェリアは空へ視線を向けた。
「ああ、ちょうどあんな感じの……」
ヴェリアの言葉が不意に途切れた。
紅い瞳が空の一点を見据えていた。
「先生?」
アリエッタはヴェリアの視線を追って、空を見上げた。




