第11話「先方によけてもらいましょう」
草原の彼方には青く霞んだ山並みが連なっていた。
その遥か上空に白っぽい小さな影が浮かんでいる。
細長い影の左右には短い翼かヒレのようなものが伸びていて、鳥にも魚にも見えた。
アリエッタが目を凝らしていると、影は次第に大きくなり、色彩と輪郭がはっきりしてきた。
「……船?」
青と白に彩られた長大な船だった。
船体の左右には大きな翼が広がり、船尾には上下に伸びる小さな翼がついている。
船体の上には建物のような構造物が見えた。
「あれが、飛空船……」
長大な船体から生えた翼はまるで魚の胸びれや尾びれのようだった。
青空を背に悠然と進むその姿は、さながら空を泳ぐ鯨だった。
初めて目にする光景にアリエッタはすっかり見入っていた。
しかし、しばらく眺めているうちに様子がおかしいことに気づいた。
船体が大きく傾いている。
左右に広がる翼のうち、片方の先端が内側へ折り畳まれていた。
鯨の頭を思わせる船首が徐々に下を向き、傾いた船体が高度を下げていく。
「……先生、あれ、落ちてきてませんか?」
アリエッタは空を見上げたまま、隣のヴェリアに訊ねた。
「落ちてきてますねえ」
ヴェリアも空を見上げたまま、いつもの調子で応じた。
飛空船はゆっくりと回転しながら落下を続けていた。
先ほどまで小さな影にしか見えなかった船が次第に大きくなっていく。
船首はアリエッタたちのいる方向を向いていた。
「……こっちに向かってきてませんか?」
「こっちに向かってきてますねえ」
遠くから、地鳴りにも似た低い音が聞こえはじめた。
飛空船が回転するたびに、青と白の船体が太陽の光を受けて明滅する。
船首は徐々に地面へ向かって下がり、広がっていたもう片方の翼も少しずつ畳まれていった。
もはや、空を泳ぐ鯨には見えなかった。
巨大な船体が地面に向かって落ちていく。
アリエッタたちがいる場所よりずっと手前に落ちそうだったが、船がどこまで迫ってくるのか分からなかった。
アリエッタはヴェリアの外套の袖を掴んだ。
「こ……ここ、危なくないですか?」
「危ないですねえ」
ヴェリアは相変わらず穏やかな声で応じた。
アリエッタが隣を見上げると、ヴェリアは額に手をかざして空を眺めていた。
「思いっきり巻き込まれちゃいますねえ」
その横顔に慌てた様子は少しもなかった。
「じゃ、じゃあ、に、逃げたほうがよくないですか!」
アリエッタはヴェリアの外套の袖を引っ張った。
「うーん」
ヴェリアは傾いた船体の動きをじっと追っていた。
何をそんなに考えることがあるんだろう。
早く逃げないと間に合わなくなる。
アリエッタはヴェリアの外套を強く握った。
やがてヴェリアは額にかざしていた手を下ろし、アリエッタに顔を向けた。
そして、にっこりと微笑んだ。
「間に合いませんね」
「そんな!」
アリエッタは慌てて周囲を見回した。
見渡す限り草原が広がり、身を守れそうな場所はなかった。
腹の底に響くような轟音が辺りの空気を震わせていた。
「に、逃げましょう! 先生!」
アリエッタはヴェリアの袖を引っ張りながら叫んだ。
「いいえ」
ヴェリアは再び飛空船に顔を向けた。
「先方によけてもらいましょう」
「えっ?」
アリエッタは思わず引く手を止めた。
ヴェリアが飛空船に向かって杖を掲げた。
紅い瞳が彼方を見据える。
アリエッタもその視線を追って、飛空船を見上げた。
杖に据えられた透明な珠が白く光る。
その光がひときわ強くなると、落下していた飛空船の回転が鈍りはじめた。
巨大な船体がゆっくりと向きを変え、甲板がこちらを向いたところでぴたりと回転を止めた。
アリエッタは目を見開いた。
ヴェリアが掲げた杖を左右に振った。
すると今度は、折り畳まれていた青と白の両翼が左右へ大きく広がった。
ヴェリアは狙いを定めるように、飛空船へ杖をぴたりと向けた。
杖の珠が放つ光が白から緑に変わった。
飛空船は船首を下に向けたまま落下を続けていた。
その真下の草原に異変が起きた。
草が一斉に逆立ち、地面から空へ向かって猛烈な風が吹き上がった。
下を向いていた船首がゆっくりと持ち上がりはじめる。
巨大な鯨が胸を張るように、船体が大きく反り返っていく。
やがて飛空船は水平に近い姿勢を取り戻した。
だが、落下は止まらない。
杖の先端で緑色の輝きがさらに強まった。
次の瞬間、二人の背後から猛烈な風が吹きつけた。
「わっ!」
アリエッタは思わず身をすくめた。
足元の草が一斉になぎ倒され、二人の外套が激しくはためいた。
二人の左右を駆け抜けた風は、大波となって飛空船へ向かっていく。
アリエッタが目を細めて見つめる先で、風が飛空船をとらえた。
巨大な船体が震えた。
地面が迫る。
激突すると思った瞬間、飛空船は地面すれすれで水平に滑り出した。
巨大な鯨が風の大波に乗り、ふたたび空を泳ぎ始めた。
しかし、その進路の先にはアリエッタたちがいる。
飛空船は猛烈な速度で二人に迫ってきた。
「――っ!」
アリエッタは息を呑み、ヴェリアにしがみついた。
青と白の船体が轟音とともに迫ってくる。
船首がみるみる大きくなり、視界いっぱいに広がっていく。
逃げなければ。
けれど足が動かない。
目も離せない。
船首がアリエッタの視界を埋め尽くす。
――ぶつかる!
次の瞬間、飛空船が空を覆った。
巨大な船体が二人の頭上を駆け抜ける。
無数の継ぎ目が走る青と白の船底が凄まじい速さで流れていく。
轟音が全身を震わせるなか、アリエッタはヴェリアにしがみついたまま頭上を見上げていた。
どこまでも続くかと思われた船体のあと、唐突に青空が戻った。
アリエッタは大きく息を吸い込んだ。
遠ざかる飛空船を目で追いかける。
そのとき、ヴェリアがアリエッタをぐっと抱き寄せた。
アリエッタの頬がヴェリアの胸元に強く押しつけられる。
「えっ」
困惑したのも束の間、暴風が二人を襲った。
外套の裾が激しくはためく。
吹きつける風がアリエッタの背中を容赦なく叩いた。
「――っ!」
アリエッタはヴェリアの胸元に顔を埋め、必死に両足を踏ん張った。
ヴェリアはアリエッタを抱え込んだまま微動だにしなかった。
やがて風が収まり、アリエッタは顔を上げた。
ヴェリアは杖を掲げたまま、彼方を見据えていた。
ヴェリアの視線の先には遠ざかっていく飛空船があった。
飛空船は勢いを落とさず、なおも草原の上を進んでいた。
左右の翼を大きく広げ、地面すれすれを滑るように飛んでいく。
船底が草原に触れた。
巨大な船体が草を押し倒しながら滑走していく。
徐々に速度を落とし、やがて停止した。
大きく広がっていた左右の翼がゆっくりと下がり始めた。
まるで長い飛行を終えた鯨が力を抜くように、草地へと下りていく。
翼が地面につくと、ヴェリアが杖を下ろした。
どこからか鳥のさえずりが聞こえてきた。
アリエッタはヴェリアにしがみついたまま、遠くに着陸した飛空船を見つめていた。
「どうやら無事に降りられたようですね」
ヴェリアが小さく首を傾げた。
「大丈夫ですか、アリエッタ?」
ヴェリアは抱き寄せていた腕を緩め、アリエッタの顔を覗き込んだ。
アリエッタはこくこくと頷いた。
けれど、まだ声は出なかった。
今も心臓が激しく打ち続けている。
そこで初めて、ヴェリアにしがみついたままでいることに気づいた。
「あ……す、すみません」
アリエッタはゆっくりと身体を離した。
ヴェリアは微笑みながらアリエッタの髪に手を伸ばした。
指で髪を梳いていく。
暴風で髪がぼさぼさになっていた。
気恥ずかしかったけれど、アリエッタはおとなしく頭を差し出した。
あれほどの風を受けたのに、ヴェリアの髪は少しも乱れていなかった。
アリエッタの髪をひと通り整えると、ヴェリアは遠くの飛空船へ目を向けた。
「商船だと思いますが……」
アリエッタも飛空船に目を向けた。
緩やかに下っていく草原の先に青と白の巨体が停まっている。
「乗っていた人たちの様子も気になりますし、行ってみましょう」
「は、はい」




