第八話 護衛になりたい羊
夕暮れが草原を茜色に染める頃、パルネリック辺境伯領には再び雨雲が近づいていた。
羊小屋では、アルマが落ち着かない様子で何度も小屋の入り口を見つめている。
昼間、使用人たちが話していた言葉が頭から離れなかった。
ナザールが狙われている。
それはアルマにとって、何よりも聞きたくない知らせだった。
(あの人は戦えない。)
病弱で、剣も振るえない。
それでも誰よりも優しく、人を疑うことを知らない。
だからこそ狙われやすいのかもしれない。
そんなことを考えていると、小屋の扉が開いた。
「アルマ。」
待ち焦がれていた声だった。
ナザールが少し疲れた表情で立っている。
「今日も来てくれた。」
アルマは嬉しそうに駆け寄り、その胸へ頭を擦り寄せた。
「メェ。」
ナザールは苦笑しながら頭を撫でる。
「ありがとう。今日は少し疲れちゃったな。」
その一言だけで、アルマには十分だった。
兄との話し合いは、きっと重いものだったのだろう。
ナザールは羊小屋の柵へ腰掛け、大きく息を吐いた。
「兄上は警備を増やすって言ってた。」
アルマは静かに耳を傾ける。
「でも、兵士のみんなにも家族がいる。」
ナザールは少し寂しそうに笑った。
「僕のために誰かが傷つくのは嫌なんだ。」
その優しさに、アルマは胸が締めつけられる。
(だから狙われるんだよ。)
もっと自分を大切にしてほしい。
そんな言葉を伝えられないのがもどかしかった。
その時だった。
ぽつり。
一粒の雨がナザールの肩へ落ちる。
「また雨か。」
彼は空を見上げ、立ち上がった。
「今日は降るのが早いね。」
使用人たちが慌てて窓を閉め始める。
羊小屋の扉も閉められ、中は静かな雨音だけに包まれた。
ナザールはアルマの頭を軽く撫でる。
「また明日来るよ。」
「メェ。」
名残惜しそうに手を振ると、屋敷へ戻っていった。
足音が遠ざかる。
アルマはしばらくその背中を見送っていた。
やがて周囲に誰もいなくなったことを確認すると、小さく息を吐く。
「……変わろう。」
白い光が身体を包む。
羊毛が光となって舞い、四本脚は細く長い脚へと変わる。
数秒後。
そこには、白髪と桜色の瞳を持つ少女――アーマルが立っていた。
雨粒が頬を伝う。
彼女は拳をゆっくり握った。
「ナザールさんを守りたい。」
その気持ちは、もう迷いではなかった。
盗賊を倒した時は、目の前の命を助けることしか考えていなかった。
しかし今は違う。
自分から守りたいと思っている。
恋をしているから。
それだけではない。
前世で救えなかった命がいくつもあった。
だから今度こそ、大切な人は守り抜きたい。
「でも……。」
アーマルは困ったように頬をかく。
「どうやって護衛になればいいんだろう。」
考える。
辺境伯家へ行って「護衛にしてください」と言うだけでは怪しまれる。
どこの誰かも分からない少女を雇うほど、辺境伯家は甘くない。
「履歴書もないし……。」
前世の癖で思わず呟いてしまう。
異世界に履歴書は存在しない。
「……あ。」
自分で言ってから気づき、思わず吹き出した。
「何考えてるんだろ、私。」
誰もいない羊小屋に、小さな笑い声が響く。
その時だった。
「誰だ!」
外から兵士の鋭い声が聞こえた。
アーマルはすぐに窓の隙間から外を見る。
黒い外套をまとった男が一人、屋敷の塀を飛び越えようとしていた。
「侵入者だ!」
兵士たちが一斉に走る。
男は舌打ちすると、森の方へ逃げ出した。
「待て!」
数人の兵士が追いかける。
アーマルは目を細めた。
「あの動き……。」
昨夜の盗賊とは違う。
無駄がない。
足運びも軽い。
兵士たちを振り切ることだけを考えた走り方。
「偵察……。」
敵はまだ諦めていない。
辺境伯家の警備を調べに来たのだ。
アーマルは表情を引き締めた。
「やっぱり。」
雨粒が白い髪を濡らす。
「私が守らなきゃ。」
その瞳には迷いがなかった。
羊としてではない。
一人の少女として。
そして最強の格闘家として。
彼女は静かに屋敷の方へ歩き出す。
まずはナザールへ会おう。
そして今度こそ、自分の力を正式に認めてもらう。
護衛として。
彼のそばにいるために。
その決意が、新たな運命の扉を開こうとしていた。




