第七話 狙われた辺境伯家
翌朝。
昨夜の雨が嘘だったかのように、パルネリック辺境伯領には澄み切った青空が広がっていた。
朝日を浴びた草原には小さな水滴がきらきらと輝き、羊たちは何事もなかったかのようにのんびりと草を食んでいる。
その中には、もちろんアルマの姿もあった。
「メェ……。」
草を食べながらも、アルマの意識は昨夜の出来事でいっぱいだった。
人間としてナザールと話したこと。
一緒にお茶を飲んだこと。
「また会えます」と約束したこと。
思い出すたびに、羊の顔では分からないものの、心の中では何度も頬が緩んでいた。
(また会えるって言っちゃったけど……どうしよう。)
アーマルとして名乗ってしまった以上、また雨の日には姿を見せなければ不自然になる。
かといって頻繁に現れれば、素性を怪しまれるかもしれない。
(恋をするって、こんなに難しかったっけ……。)
前世では恋愛経験がなかった。
相談相手もいない。
そもそも羊なので恋愛マニュアルなど存在しない。
「メェェ……。」
思わず悩みの鳴き声が漏れる。
「アルマ?」
聞き慣れた声に顔を上げると、ナザールがこちらへ歩いてきていた。
今日も淡い青色のシャツにベストという動きやすい服装で、手にはいつものブラシを持っている。
「朝から難しい顔をしているね。」
「メェ!?」
(えっ、羊にも難しい顔ってあるの!?)
慌てて口元を緩めようとするが、羊なので表情筋はほとんど動かない。
ナザールはくすりと笑った。
「気のせいかな。」
そう言ってアルマの頭を優しく撫でる。
その温かな手の感触に、アルマの悩みは一瞬で吹き飛んでしまった。
(もう……好き。)
こんなにも単純だっただろうかと、自分で自分に呆れる。
ナザールはブラシを取り出し、いつものように毛並みを整え始めた。
「昨日は大変だったね。」
「メェ。」
「盗賊が入るなんて初めてだった。」
その声は少し沈んでいた。
「もしあの人が来てくれなかったら、使用人や兄上たちに被害が出ていたかもしれない。」
アルマは静かに耳を傾ける。
「また会えたら、お礼をしたいな。」
その言葉に胸が温かくなる。
しかし同時に、少しだけ複雑な気持ちにもなった。
(今ここにいるんだけどな……。)
思わず前足を見つめる。
今は羊。
ナザールが感謝しているのは、人間の姿のアーマルだ。
どちらも自分なのに、その気持ちを素直に受け取れないのが少しもどかしかった。
その時だった。
「ナザール様!」
一人の兵士が慌ただしく駆け込んできた。
「辺境伯様がお呼びです!」
兵士のただならぬ様子に、ナザールの表情が引き締まる。
「何かあったのですか?」
「昨夜捕らえた盗賊について、新しいことが分かりました。」
ナザールは小さく頷き、アルマの頭をひと撫でして立ち上がった。
「また後で来るね。」
「メェ。」
その背中を見送ったアルマは、何となく嫌な予感を覚えていた。
⸻
同じ頃、屋敷の執務室では重苦しい空気が流れていた。
机の上には昨夜押収した武器や地図、そして一枚の紙が並べられている。
エルオーニは腕を組み、紙に書かれた文章を見つめていた。
『第一隊失敗。白髪の少女は想定外。第二隊を送る。』
ナザールが部屋へ入ると、兄は静かに顔を上げた。
「来たか。」
「兄上、その紙は……。」
「盗賊の懐から見つかった。」
エルオーニは低い声で続ける。
「昨夜の襲撃は偶然ではない。」
ナザールの表情が曇る。
「私たちが狙われていた、と?」
「ああ。」
エルオーニは地図を指差した。
「しかも奴らの狙いは金ではない。」
「え……?」
「金庫の位置を知りながら、一切近づいていない。」
ナザールは息を呑んだ。
「では目的は……。」
「お前だ。」
部屋が静まり返る。
「私……ですか?」
エルオーニはゆっくりと頷いた。
「お前の執務室へ向かった形跡がある。何かを盗むか、お前自身を狙っていた可能性が高い。」
ナザールは言葉を失った。
自分には戦う力はない。
誰かに恨まれるようなことをした覚えもない。
それでも、誰かが自分を狙っている。
「兄上……。」
「安心しろ。」
エルオーニは力強く言った。
「私が必ず守る。」
しかし、その横顔には隠しきれない緊張が浮かんでいた。
これはただの盗賊騒ぎではない。
何者かが、計画的に辺境伯家へ手を伸ばしている。
⸻
その日の夕方。
羊小屋でくつろいでいたアルマは、偶然、窓の外から聞こえてきた使用人たちの会話に耳を澄ませていた。
「聞いたか? 盗賊はナザール様を狙っていたらしい。」
「えっ!? 本当か?」
「辺境伯様が警備を倍にするそうだ。」
アルマの心臓が強く鼓動した。
(ナザールが……狙われてる?)
昨夜の出来事は終わっていなかった。
むしろ、すべては始まったばかりだったのだ。
アルマは静かに空を見上げる。
夕焼けの向こうには、また灰色の雲が流れてきている。
雨は、もうすぐ降り始める。
そして彼女は決意する。
(今度は、偶然なんかじゃない。)
(私がナザールを守る。)
その想いは、恋する少女の願いであり、前世最強の格闘家としての覚悟でもあった。




