第三十五話 遠く離れた白い羊
パルネリック家の屋敷では、王都での新しい生活が始まっていた。
魔導塔襲撃から数日。
ナザールを狙った者たちの目的は未だ分からない。
しかし、護衛として同行したアーマルの存在によって、ナザールの周囲には以前より安心できる空気が生まれていた。
「アーマルさん。」
「はい?」
庭を歩きながら、ナザールがふと足を止める。
「辺境伯領の家畜小屋は、今頃どうなっているでしょうね。」
アーマルの胸が小さく跳ねた。
「家畜小屋……ですか?」
「はい。」
ナザールは優しく笑う。
「特に気になる子がいるんです。」
アーマルは分かっていた。
その子が誰なのか。
「アルマという羊です。」
ナザールは空を見上げる。
「真っ白で、とても綺麗な羊なんです。」
「毛が柔らかくて、人懐っこくて……。」
「私が落ち込んでいる時も、いつも側にいてくれました。」
アーマルは少し俯く。
(ナザール様……。)
(ちゃんと覚えていてくれているんですね。)
自分が羊だった頃。
病弱で部屋にこもりがちだったナザールの隣で、何度も寄り添った。
言葉は話せなくても、彼の寂しさだけは分かっていた。
「でも、安心してください。」
ナザールは微笑む。
「領地には使用人たちがいます。」
「きっと大切に世話をしてくれています。」
「はい。」
アーマルは笑顔で答える。
「きっとアルマも、ナザール様が元気でいることを願っていますよ。」
その言葉に、ナザールは少し驚いた顔をした。
「どうしてそう思うのですか?」
「え?」
「あなたはまるで、アルマの気持ちが分かるような言い方をしますね。」
アーマルの心臓が跳ねる。
「そ、それは……。」
慌てて誤魔化す。
「動物は、人の気持ちを感じ取ることができると思うからです。」
「なるほど。」
ナザールは納得したように頷いた。
しかし、少しだけ不思議そうに彼女を見る。
その日の夜。
王都には静かな雨が降っていた。
アーマルは自室の窓から空を見上げる。
「雨……。」
雨の日。
それは彼女が本来の力を使える日。
白い羊の姿から、人間の姿へ変わることができる日。
しかし今、彼女はすでに人間の姿で王都にいる。
そのため、雨が降っても変化する必要はない。
ただ――。
雨を見ると、辺境伯領に残してきた自分自身を思い出す。
(アルマは今頃、どうしているかな。)
少しおかしなことを考えていると気づき、アーマルは苦笑した。
(私なのに。)
翌朝。
ナザールは王都の市場へ向かう予定だった。
もちろん護衛はアーマル。
「王都は本当に人が多いですね。」
アーマルは周囲を見回す。
前世では都会で暮らしていたが、異世界の王都はまた違った賑わいがある。
「迷子にならないでくださいね。」
ナザールが冗談を言う。
「大丈夫です。」
アーマルは胸を張る。
「私は護衛ですから。」
その瞬間。
路地裏から数人の男が飛び出した。
「ナザール・パルネリック!」
「止まれ!」
ナザールを狙う者たち。
アーマルはすぐに前へ出る。
「ナザール様から離れてください。」
男たちは笑う。
「女一人で何ができる。」
次の瞬間。
アーマルの姿が消えた。
「え?」
一人目の腕を取り、投げ飛ばす。
二人目の足を払う。
三人目の攻撃をかわし、地面へ叩き伏せる。
わずか数秒。
男たちは全員動けなくなった。
「……。」
ナザールは言葉を失う。
「やはり、すごいですね。」
「え?」
「あなたは本当に強い。」
アーマルは少し照れた。
「護衛ですから。」
事件が解決した後。
ナザールは小さく笑った。
「不思議です。」
「何がですか?」
「あなたを見ていると、アルマを思い出します。」
アーマルの動きが止まる。
「羊のアルマですか?」
「はい。」
ナザールは頷く。
「姿は全然違うのに。」
「あなたもアルマも……。」
「誰かを安心させる力があります。」
その言葉に、アーマルは胸が温かくなる。
「……ありがとうございます。」
王都の夜。
闇の中でゼルヴァンは報告を聞いていた。
「羊姫はナザールの護衛として、完全に側にいる。」
「そしてナザールは、まだ彼女の正体に気づいていない。」
ゼルヴァンは笑う。
「面白い。」
「自分が大切にしていた羊が、人間の姿で隣にいるとは夢にも思わないだろう。」
「だが……。」
彼は窓の外を見る。
「真実を知った時。」
「二人の関係は、大きく変わる。」
雨上がりの王都。
二人の秘密の関係は、さらに深まっていく。




