第二話 雨の日だけの少女
昼下がりを過ぎる頃、パルネリック辺境伯領の空はゆっくりと表情を変え始めていた。
朝にはあれほど澄み渡っていた青空は、いつしか灰色の雲に覆われ、草原を渡る風には雨の匂いが混じり始める。
屋敷で働く使用人たちは空を見上げながら、「今日は降りそうですね」と口々に話していた。
羊小屋の前では、ナザールが一頭一頭の羊を柵の中へ戻している。
「今日は早めに小屋へ入ろう。濡れると風邪を引いてしまうからね。」
優しい声に導かれるように羊たちは小屋へ戻っていく。
最後に残ったのはアルマだけだった。
「アルマ、おいで。」
「メェ。」
アルマはゆっくりと歩き、ナザールのもとへ近づく。
頭を優しく撫でられると、胸の奥がぽかぽかと温かくなった。
(このままずっと一緒にいたい……。)
そんな願いを胸に抱いた瞬間だった。
ぽつり。
冷たい雨粒がアルマの鼻先へ落ちた。
続いてもう一粒。
空から降る雨は少しずつ勢いを増し、草原を静かに濡らしていく。
「降ってきたか。」
ナザールは羊小屋の扉を閉めながら微笑んだ。
「少し仕事があるから屋敷へ戻るね。雨が止んだらまた来るよ。」
そう言ってアルマの頭を軽く撫でると、屋敷へ向かって歩き出した。
アルマはその背中を見送りながら、小さく鳴く。
「メェ……。」
姿が見えなくなるまで、ずっと。
やがて足音も遠ざかり、羊小屋には雨音だけが残った。
静寂が訪れる。
アルマは周囲を慎重に見回した。
誰もいない。
使用人の気配もない。
窓の外にも人影は見当たらなかった。
「……今なら。」
その瞬間だった。
身体の奥から、温かな光が溢れ出す。
真っ白な毛並みが淡い光に包まれ、ふわりと宙へ舞う。
四本脚だった身体は細く長い二本の足へ変わり、小さな蹄は白く美しい指先へ。
短かった首はしなやかに伸び、羊の顔立ちは人間の少女の姿へと変わっていく。
数秒後。
光が静かに消える。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
腰まで届く雪のような白い髪。
透き通るような白い肌。
桜色に輝く大きな瞳。
年の頃は十六歳ほど。
可憐さと神秘的な美しさを兼ね備えた少女は、自分の両手をじっと見つめ、小さく息を吐いた。
「今日も……人間になれた。」
少女――アーマルは、指をゆっくりと握ったり開いたりする。
羊ではできなかった動作。
それだけで少し嬉しくなる。
「やっぱり指があるって便利。」
思わず笑みがこぼれた。
歩いてみる。
軽く跳ねてみる。
その場で一回転する。
何度経験しても、人間の身体に戻るたび、不思議な感覚に包まれる。
もっとも、この姿でいられるのは雨が降っている間だけ。
雨が止めば、再び羊へ戻ってしまう。
だからこそ、この時間はアルマにとってかけがえのない宝物だった。
「少しだけ外に出ようかな。」
羊小屋の扉をそっと開ける。
冷たい雨が頬に触れる。
雨に濡れた草原は幻想的な景色へと変わっていた。
草花には水滴が光り、小川には雨粒が波紋を描いている。
「綺麗……。」
前世では、雨の日は嫌いだった。
満員電車。
濡れたスーツ。
重くなる荷物。
嫌な思い出ばかりだった。
でも、この世界では違う。
雨の日だけは、人間になれる。
だから今では、一番好きな天気だった。
その時、屋敷の方からかすかな物音が聞こえた。
ガタン――。
「……?」
風で何か倒れたのだろうか。
そう思った矢先、今度は低い男たちの声が耳に届く。
「裏口から入れ。」
「見張りはいない。」
「目当ては金庫だけだ。」
アーマルの表情から笑みが消えた。
聞き間違いではない。
男たちの声には、明らかな殺気が混じっていた。
彼女は静かに物陰へ身を隠し、屋敷の裏を覗き込む。
黒い外套をまとった男が三人。
さらに塀の向こうには数人の仲間が待機している。
盗賊だった。
雨で警備が手薄になるのを狙って侵入してきたのだ。
「まさか……今日?」
アーマルは唇を噛む。
屋敷にはエルオーニやバーバラ、使用人たちもいる。
そして何より――
ナザールがいる。
胸の奥で何かが熱く燃え上がった。
「絶対に……守る。」
その瞬間、前世の田辺ミオとしての感覚が目を覚ます。
呼吸が整う。
視界が広がる。
敵との距離。
人数。
逃走経路。
一瞬で頭の中に情報が組み立てられていく。
最強の格闘家だった頃の自分が、静かに戻ってきた。
アーマルは雨に濡れる白い髪をなびかせながら、小さく微笑む。
「羊だからって、甘く見ないでね。」
そう呟くと、彼女は音もなく屋敷へ向かって駆け出した。
雨の中を走るその姿は、まるで白い風そのものだった。




