第一話 羊小屋で始まる恋
ダザール王国の北西部に広がるパルネリック辺境伯領は、一年を通して穏やかな風が吹く、豊かな草原の国だった。
朝露をまとった草花は陽光を受けて宝石のように輝き、羊や馬たちはどこまでも続く緑の大地をのんびりと歩き回る。戦争とは縁遠く、魔物の被害も少ないこの地は、「王国でもっとも平和な領地」と人々から称えられていた。
その領地を治めるパルネリック家の屋敷の裏には、大きな羊小屋が建っている。
朝日が差し込む頃、小屋の隅で丸くなって眠っていた一頭の羊が、ゆっくりと目を開けた。
真っ白な毛並みは雪のように美しく、ふわりと膨らんだ羊毛は雲を抱きしめているように柔らかい。小さく鳴きながら伸びをしたその羊は、辺境伯家で暮らす雌羊――アルマだった。
アルマは普通の羊ではない。
彼女の心には、人間だった頃の記憶が残っていた。
前世の名は田辺ミオ。
四十歳の会社員だった。
どこにでもいる平凡な女性――そう思われていたが、それは表向きの姿に過ぎない。
仕事が終われば道場へ通い、休日になれば武術の大会へ出場する。空手、剣道、截拳道、柔術、レスリング、プロレスなど、あらゆる格闘技を極め、国内でも敵なしと呼ばれるほどの実力を持っていた。
強さゆえに男性から怖がられ、恋愛とは縁のない人生だった。
そんな彼女は、ある冬の日、駅のホームから転落した少女を助けるため迷わず線路へ飛び込み、その命を落とした。
そして目を覚ました時には、この異世界で一頭の羊として生まれ変わっていたのである。
最初は絶望した。
言葉は話せない。
手も使えない。
料理もできない。
箸どころかスプーンすら持てない。
「……メェ。」
思い出すたび、ため息のような鳴き声が漏れる。
それでも今は、この暮らしを嫌いではなかった。
「おはよう、アルマ。」
穏やかな声が羊小屋に響いた。
アルマは勢いよく顔を上げる。
朝日に照らされながら小屋へ入ってきた青年は、金色の髪を揺らし、柔らかな笑みを浮かべていた。
ナザール・パルネリック。
十九歳。
この領地を治める辺境伯エルオーニの腹違いの弟であり、辺境伯家の次男である。
幼い頃から病弱で剣を振るうことは苦手だったが、その代わりに学問や政治を学び、兄を支える補佐役として忙しい日々を送っていた。
それでも毎朝欠かさず羊小屋へ足を運ぶ。
動物たちに会うことが、彼にとって一日の始まりだった。
アルマは思わず駆け寄る。
ナザールは優しくしゃがみ込み、彼女の頭を撫でた。
大きく温かな手だった。
その手に触れられるたび、不思議と胸の奥がくすぐったくなる。
前世では一度も味わったことのない感情だった。
「今日はブラッシングをしようか。」
木製のブラシが取り出される。
アルマは嬉しそうにその場へ座り込んだ。
ナザールは一本一本の毛を丁寧に梳かしていく。
決して力任せではない。
毛並みを傷つけないよう、まるで大切な宝石を磨くような手つきだった。
その心地よさに、アルマは自然と目を細める。
前世では肩こりや仕事の疲れに悩まされていたというのに、今はブラッシングだけで幸せな気分になれる。
羊という生き物は、案外単純なのかもしれない。
「本当に綺麗な毛だね。」
ナザールは感心したように微笑んだ。
「君を見ていると、不思議と疲れがなくなる。」
その言葉に、アルマの胸が高鳴る。
もちろん、ナザールに特別な意味はない。
動物好きの彼にとって、それは愛情を込めた何気ない言葉なのだろう。
それでもアルマは嬉しかった。
(私も……あなたを見ているだけで幸せなんだよ。)
声にできない想いを胸の中だけで呟く。
羊の姿では、この気持ちを伝えることはできない。
けれど、それでも構わなかった。
こうして毎日そばにいられるだけで十分だと思っていたから。
しかし、アルマには誰にも話せない秘密が一つだけあった。
雨の日になると、彼女は人間の姿へ変身する。
雪のように白い髪。
桜色に輝く瞳。
十六歳ほどの少女――アーマルとして。
その姿になれば、前世で鍛え上げた戦闘技術もすべて取り戻すことができる。
だからこそ、この秘密だけは絶対に知られてはいけない。
普通の羊が人間になるなど、この世界では奇跡どころか災いとして扱われるかもしれないのだから。
その時だった。
草原を吹き抜ける風が少しだけ冷たくなった。
アルマが空を見上げると、青空の向こうからゆっくりと灰色の雲が流れてくる。
雨の匂いがした。
胸の鼓動が少しだけ速くなる。
今日もまた、奇跡の時間が訪れようとしていた。
だがアルマはまだ知らない。
その日の雨が、自分とナザールの運命を大きく動かす始まりになることを。
そして、一頭の羊として始まった小さな恋が、やがて王国中を巻き込む大きな物語へとつながっていくことを。
…かなり長くなる話です。
気長に待っててね




