第二十六話 黒狼の涙
宿場町レインベルの広場。
突然現れた巨大な黒狼に、人々は悲鳴を上げながら逃げ惑っていた。
「魔物だ!」
「早く逃げろ!」
「子どもを連れて避難しろ!」
漆黒の毛並みを持つ巨大な狼は、苦しそうに唸り声を上げている。
その首には、黒い金属でできた禍々しい首輪がはめられ、紫色の魔力が煙のように立ち昇っていた。
「グルルル……!」
アーマルはその姿を見て、眉をひそめる。
(違う……。)
(この子は人を襲いたいんじゃない。)
(何かに操られてる……。)
前世で数多くの修羅場を経験してきた勘が、そう告げていた。
「ナザール様。」
アーマルは一歩前へ出る。
「危険ですので、私の後ろへ。」
「ですが、一人では……!」
「大丈夫です。」
彼女は穏やかに微笑んだ。
「必ず守ります。」
その言葉には、不思議と人を安心させる力があった。
ナザールは小さく頷き、避難する子どもたちの誘導へ向かう。
「無理だけはしないでください!」
「はい!」
それを見届けたアーマルは、ゆっくりと黒狼へ向き直った。
同じ頃、エルオーニも騎士たちへ指示を飛ばす。
「町の人々を避難させろ!」
「弓兵は構えろ! だが、私の命令があるまで放つな!」
「はっ!」
騎士たちは黒狼を包囲する。
しかしアーマルは静かに手を上げた。
「待ってください!」
全員の視線が彼女へ集まる。
「この子は魔物じゃありません。」
「操られているだけです。」
「何だと?」
エルオーニが驚く。
アーマルは黒狼の首輪を指差した。
「あの首輪から強い魔力を感じます。」
「おそらく呪いの魔道具です。」
その瞬間だった。
「ガアアアアッ!!」
黒狼が苦しそうな咆哮を上げ、一直線に飛びかかってくる。
「危ない!」
騎士たちが叫ぶ。
しかしアーマルは一歩も退かない。
狼の爪を紙一重でかわし、その勢いを利用して身体を半回転させる。
「はっ!」
前世で身につけた柔術の技。
巨大な黒狼の身体が宙を舞い、広場の地面へ転がった。
ドォン!
土煙が舞い上がる。
広場が静まり返った。
「……。」
「……今、投げた?」
「いや、あの大きさを?」
騎士たちは目を丸くする。
エルオーニでさえ驚きを隠せなかった。
だがアーマルは黒狼だけを見つめていた。
「ごめんね。」
「少し痛かったかな。」
黒狼は起き上がる。
その琥珀色の瞳から、一筋の涙が流れ落ちた。
「クゥ……。」
まるで助けを求めるような鳴き声だった。
その姿にアーマルの胸が締めつけられる。
「やっぱり……。」
「苦しいんだね。」
彼女はゆっくりと近づいていく。
「アーマルさん!」
ナザールが叫ぶ。
「危険です!」
「大丈夫です。」
アーマルは振り返らずに答えた。
「この子は私を傷つけません。」
一歩。
また一歩。
黒狼も威嚇することなく、その場に座り込んだ。
アーマルはそっと首輪へ手を伸ばす。
途端に――。
「っ!」
紫色の呪いが彼女の手へ絡みつく。
焼けるような痛みが走った。
それでも手を離さない。
「あなたを……助ける。」
その強い想いに応えるように、左手にはめた指輪・マランナが淡い白い光を放った。
優しく、温かな光。
その輝きは首輪を包み込み、禍々しい紫色の魔力を少しずつ浄化していく。
ピシッ。
首輪に一本のひびが入った。
「割れた!」
騎士の一人が叫ぶ。
しかし、完全には壊れない。
その時――。
屋根の上から、乾いた拍手が聞こえた。
「見事だ。」
一人の黒いローブの男が、静かに姿を現す。
「まさか呪いを弱めるとは。」
男は細い目でアーマルを見下ろした。
「君がマランナの継承者か。」
エルオーニは剣を抜く。
「何者だ!」
男は優雅に一礼した。
「私の名は――七魔将、《呪縛》のゼルヴァン。」
その名を聞いた瞬間、辺境伯の表情が険しく変わる。
「七魔将……!」
ゼルヴァンは不気味に微笑み、アーマルだけを見つめた。
「羊姫。」
「君の力……期待以上だ。」
アーマルはゼルヴァンを真っすぐ睨み返す。
「あなたがこの子を苦しめたの?」
「ああ。」
ゼルヴァンは悪びれる様子もなく頷いた。
「ただの実験さ。」
「君が本当にマランナに選ばれた器か、確かめるためのね。」
その言葉に、アーマルの瞳に静かな怒りが宿る。
「命を弄ぶ人は……。」
「絶対に許さない。」
広場の空気が一変する。




