第十三話 変化の指輪の伝説
パルネリック辺境伯家の書庫は、王都の図書館にも引けを取らないほどの蔵書を誇っていた。
歴代の辺境伯たちが数百年もの歳月をかけて集めた書物は、天井まで届く本棚を埋め尽くし、その多くが王国でも現存数の少ない貴重な文献ばかりである。
その静かな書庫の一角で、エルオーニは古びた一冊の本を開いていた。
革張りの表紙は長い年月を物語るように色褪せ、ページをめくるたびに乾いた紙の香りが漂う。
「兄上。」
ナザールが書庫へ入ってくる。
「何を調べているのですか?」
エルオーニは顔を上げることなく答えた。
「昨夜から少し気になっていてな。」
机の上に広げられていた本を、ナザールの方へ向ける。
そこには古代文字とともに、いくつもの魔道具の挿絵が描かれていた。
「これは?」
「古代魔導文明の遺産について記された書物だ。」
ナザールは興味深そうにページを覗き込む。
剣や杖、首飾りなど様々な魔道具が描かれている中、一枚の挿絵に目が止まった。
銀色の指輪だった。
中央には小さな乳白色の宝石が埋め込まれ、蔦のような繊細な装飾が施されている。
「綺麗な指輪ですね。」
「ああ。」
エルオーニは静かに頷いた。
「その名は――『マランナ』。」
その名前に、ナザールは首を傾げた。
「聞いたことがありません。」
「無理もない。」
エルオーニはページをゆっくりとめくる。
「伝説として語り継がれているだけで、実在するかも分からない魔道具だからだ。」
ナザールは説明を読み進める。
そこにはこう書かれていた。
『姿を縛られし者へ、真なる姿を与える指輪。』
「姿を……縛られた者?」
「古代では、呪いや魔法で姿を変えられた者がいたと言われている。」
エルオーニは椅子にもたれながら続けた。
「その者たちを救うために造られた魔道具がマランナだ。」
ナザールは少し驚いたように目を見開く。
「では、人間を魔物に変えられた人も元に戻れるのですか?」
「書物が正しければな。」
エルオーニは苦笑した。
「もっとも、千年以上前の伝説だ。真実かどうかは分からん。」
ナザールは再び挿絵へ目を向ける。
不思議な指輪だった。
見ているだけで、どこか温かい気持ちになる。
「……もし本当にあるなら。」
彼はぽつりと呟く。
「困っている人を助けられますね。」
その言葉に、エルオーニは優しく微笑んだ。
「お前らしい考えだ。」
しかし次の瞬間、表情を引き締める。
「だが、この指輪には一つだけ問題がある。」
「問題?」
「現在の所在が分からない。」
書物には『行方知れず』と記されていた。
最後に確認されたのは約三百年前。
王国南部にあった古代神殿で発見されたという記録を最後に、その後の行方は途絶えている。
「誰かが持っているかもしれないし、どこかの遺跡に眠っているのかもしれない。」
エルオーニは本を閉じた。
「まあ、今となっては夢物語だな。」
その話を、誰にも気づかれずに聞いている者がいた。
書庫の窓の外。
花壇の陰に隠れる一頭の白い羊。
アルマである。
朝からナザールを探して屋敷の周りを歩いていたところ、偶然開いていた窓から話が聞こえてきたのだ。
「メェ……。」
アルマの瞳が大きく揺れる。
(マランナ……。)
姿を縛られた者を救う指輪。
まるで自分のために存在するような魔道具ではないか。
もしそれが本当にあるなら。
晴れの日でも人間になれるかもしれない。
毎日ナザールの護衛ができる。
もっと長く、一緒にいられる。
その希望が胸いっぱいに広がっていく。
だが、次の瞬間。
「……伝説だけどね。」
ナザールが少し残念そうに笑った。
「見つかるといいのに。」
「そうだな。」
エルオーニも穏やかに頷いた。
「もし存在するなら、困っている誰かのために使われるべきだ。」
アルマは小さく目を閉じた。
(見つけたい。)
今まで、自分のことだけを考えていたわけではない。
ナザールを守るため。
彼の隣に立つため。
そして、羊としてではなく、一人の人間として生きるために。
そのためには、どうしても必要だった。
アルマは静かに空を見上げる。
今日は快晴だ。
雨が降る気配はない。
それでも彼女の胸には、昨日までにはなかった希望が芽生えていた。
その頃、辺境伯領から数十キロ離れた深い森の奥。
黒いローブを纏った一人の老人が、古びた石碑を前に立っていた。
老人は石碑に刻まれた紋章をゆっくりと撫で、不気味な笑みを浮かべる。
「……ようやく目覚める時が来た。」




