第95話「予兆」
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カイルたちが東の森から戻ってきたのは、出発からわずか四日目の夕刻だった。
予定よりも早い。しかも、彼らは文字通り「走って」戻ってきた。
最初にその異変に気づいたのはファルコだった。南東の外縁部、高い見張り台の上から鷹のように鋭い視線を巡らせていた彼が、広場のグラキウスに向けて鋭い声で急報を入れた。
「東から四名接近。カイル殿のパーティです。…走っています。武装したまま、全力で」
その報告を聞いた瞬間、丸太に腰掛けていたグラキウスの空気が完全に変わった。
村の子供たちに見せる人の良い好々爺の仮面が、音を立てて剥がれ落ちる。立ち上がったその背中は、一回りも二回りも巨大化したかのような圧倒的な威圧感を放っていた。
四人が、土煙を上げて広場に飛び込んできた。
全員の顔から、完全に血の気が引いている。いつもは軽口を叩くピートの唇は紫にひび割れ、セラの無表情な顔には濃い疲労の色が張り付いていた。ヨルンに至っては、杖を杖代わりにしてようやく立っている有様だ。
カイルが、その場に膝から崩れ落ち、荒い息で肩を激しく上下させた。
「…まずいことが起きてる」
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迎賓館のテラスに、張り詰めた空気が満ちていた。
私、ゴルド、グラキウス、カイルたち四人の冒険者、そして騎士を代表してオルランドとジャコモ。ロザも、村の防衛と実務を統括する立場で同席している。
カイルが、震える手でテーブルの上に羊皮紙を広げ、暖炉から持ってきた木炭で乱暴に線を引いた。
「東の交易路は、村から二日ほどの距離までは問題なかった。道は荒れているが、補修すれば荷馬車も通れる程度だ。だが、そこから先が…」
木炭の先端が、地図の南東、森の奥深くを力強く塗りつぶした。
「交易路が森の南東に差しかかるあたり。あの森の浄化がまだ届いていない区域だ。そこに…信じられない数の魔物が、異常な密度で密集していた」
「どのくらいの数だ」
グラキウスの低い問いが響いた。
「千は下らない」
ゴルドが、顔面を蒼白にして椅子の肘掛けを強く握りしめた。
「オーガ、オーク、ゴブリン。それだけじゃない。トロル、リザードマン、ダイアウルフ、ジャイアントスパイダー、ハーピー。大型の脅威だけでも、ミノタウロスが少なくとも五体。バジリスクが二体。さらに、遠くの空に、翼を持った巨大な影が旋回しているのが見えた。ワイバーンだ。少なくとも一体はいる」
ジャコモが、中指で分厚い眼鏡を押し上げ、ひどく険しい顔で地図を睨みつけた。
「…それだけ生態系の異なる多種の魔物が、一箇所に密集している。自然発生では絶対にありえん状況ですな。強大な何かに追い立てられ、逃げ場を失ってそこに溜まっているとしか考えられない」
「その通りだ」
カイルが、塗りつぶした黒い円を強く叩いた。
「浄化が進んでいる清浄な区域と、まだ穢れが色濃く残っている区域の境界線。それに沿って、森の魔物たちが全て南東に押し込まれている。神域には入れない。かといって、東の険しい山脈は越えられない。行き場を完全に失った連中が、狭い区域にひしめき合っている。互いに縄張りを侵し合って、すでに共食いや殺し合いが始まっている個体もいた。極限の興奮状態だ」
「スタンピードの前兆だな」
「追い詰められた魔物の群れが、恐怖と狂乱で限界を超えると、一斉に暴走して手当たり次第に周囲を蹂躙する。千を超える規模のスタンピードがこの距離で起きれば、この村はもちろん、防柵など紙切れ同然に吹き飛び、交易路沿いの集落も全て壊滅する」
ゴルドが、ギリッと奥歯を噛み鳴らした。
「…どうにかして、防ぐ手立てはないのか」
「ギルドに緊急報告して討伐隊を編成するには、早くても一ヶ月以上はかかる。辺境伯に軍の派遣を要請しても、ロッカグァルディアからここまでの行軍に最低でも二週間。どちらも絶対に間に合わん。あの連中、明日暴走してもおかしくない状態なんだ」
重く、絶望的な沈黙が降りた。
千を超える魔物の大暴走。村にいるのは百人余りの非戦闘員の村人と、騎士十八名と、冒険者四人と、私とグラキウス。まともに戦力差を計算すれば、ただ蹂躙されるのを待つしかない絶望的な数字だ。
その冷たい沈黙を、グラキウスが破った。
「…いや。なんとかなるのではないか」
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全員の視線が、一斉に老人に集まった。
「千を超える規模といっても、それだけ雑多な種類の魔物が、統率もなく一箇所に溜まっているだけだ。軍隊ではない。指揮官はいない。連携もない。恐怖で固まった烏合の衆だ。ならば、群れの端から少しずつ間引いていけばいい。一度に全てを相手にする必要はない。こちらから仕掛けて、群れの端から削っていく。逃げ出す個体は追わず、向かってくる者だけを確実に潰す。二日もあれば、数は半分以下に減らせる」
カイルが、信じられないものを見るように大きく目を見開いた。
「いや、そんな簡単に…千だぞ!? いくらなんでも物理的に限界が…」
「オルランド」
グラキウスが、背後に控える屈強な騎士を振り返った。
「やれるな?」
オルランドが、傷跡のある顔に、獰猛な、それでいて歓喜に満ちた微かな笑みを浮かべた。それは長年平和な巡回任務に就いていた歴戦の猛者が、久しぶりに本当の血の匂いを嗅いだ純粋な戦士の笑みだった。
「お任せあれ、グラキウス卿。あなたと再び轡を並べて死地に立てる。我らにとって、これ以上の誉れはありません」
「…ということだ、カイル殿」
グラキウスが、再びカイルに向き直った。
「基本の掃討はわしらがやる。六騎の騎士と従士を合わせて十八名、それにわしを加えた十九名が主力だ。カイル殿たちには、後方支援に回ってほしい。撃ち漏らした個体の処理と、万が一崩れた場合の退路の確保」
カイルが、黙ってグラキウスの目を見つめ返した。その瞳の奥に退く気など毛頭ない絶対的な覚悟を読み取り、ゆっくりと深く頷いた。
「…分かった。後方は任せろ。ただし、本当に陣形が崩れてまずい状況になったら、俺たちも前に出るぞ」
「承知した」




