第92話「末の始まり」
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金糸の聖旗と、赤の侯爵旗。
そして、それらを威圧するように高く掲げられた黒の辺境伯旗。
三つの巨大な権力が、春の風の中でバタバタと音を立てて交錯し、この辺境の村の運命を天秤にかけていた。
ルシアンが、長い、本当に長い沈黙の後。ゆっくりと、一度だけ頷いた。
「…承知しました。辺境伯閣下がそのような強硬な立場を取られるのであれば、今日のところは、これ以上の物理的な措置は控えましょう」
背後で、事態を全く理解していないヴィヴィアンがヒステリックに叫んだ。
「ルシアン様! 何を仰っているのですか! あの異端の門を放置して逃げ帰るおつもりですか! 教会の威信が!」
「ヴィヴィアン。黙りなさい」
今度のルシアンの声には、貴族としての穏やかさの欠片もなかった。絶対零度の湖底から響くような、短く、鋭く、背筋が凍るほど冷たい一言。
ヴィヴィアンがビクンと肩を跳ねさせ、顔を青ざめて口を固く閉ざした。
ルシアンが、最後に私の方を向いた。
「藤原殿。今日は、私たちが引きます。辺境伯の庇護は、あなた方にとって確かに分厚く、重い盾のようだ。ですが、決して勘違いなさらぬよう」
その瞳に、再び、あの底知れぬ冷酷な微笑が戻っていた。
「辺境伯の裁量が及ぶのは、あくまで世俗の法と大地の支配においてのみ。信仰の領域、魂の在り方は、神の代行者である教会の管轄です。辺境伯がどれほどの武力を持とうとも、異端の魂を救済する権利まで奪うことはできない。…これは、終わりではありません。始まりに過ぎないのですよ」
ルシアンが、流麗な動作で白馬に跨り、手綱を引いた。
「また参ります。その時は、辺境伯閣下ご本人と、直接お話をさせていただいてからになるでしょうね」
聖旗と侯爵旗を先頭に、十人の一行が踵を返し、南へと去っていく。神殿騎士たちの纏う白銀の鎧が、西に傾きかけた春の夕日を受けて、まるで血のように赤く染まっていた。
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教会の最後の一騎が完全に視界の先へと消えた瞬間。
極限まで張り詰めていた村の空気が、一斉に弾け飛んだ。
村人たちから、地鳴りのような歓声が上がった。ダリオが「勝った! 俺たちの村が勝ったぞ!」と拳を天に突き上げて泣き叫び、ロザが糸が切れたようにその場にへたり込んで両手で顔を覆い、エリオが帳簿を抱きしめたまま空を見上げて嗚咽を漏らしている。
ダリオの腕をすり抜けたリーナが、グラキウスの足元に飛びついた。
「グラさん! おかえり! 遅い遅い遅い! すっごく怖かったんだから!」
「すまんな。一度だけ道を間違えた」
「一度でも多いよ! バカグラさん!」
ゴルドが、グラキウスの前に立った。
太い目に、見間違いようのない大粒の涙が浮かんでいる。
「…よく、帰ってきてくれた」
「…芋の煮物は、まだ残っておるか」
「…一生分でも食わせてやる」
カイルが、大剣の柄からようやく手を離し、肺の中の空気を全て吐き出すような深い溜息をついた。
「…間に合ったか。本当に、肝が縮み上がったぞ」
「すまんな、カイル殿。途中、どうしてもどっちの道か分からん分岐があってな。あと一日遅ければ、手遅れだったかもしれん」
「一日…勘弁してくれ。綱渡りにも程がある」
歓喜の渦に包まれる広場の真ん中で、私は、竹箒の柄を両手でしっかりと握ったまま立っていた。
辺境伯の旗が力強く風にはためいている。六騎の騎士と十二名の従士が、下馬して馬の労をねぎらっている。
終わったのだろうか。
いや、ルシアンが残した「始まりに過ぎない」という言葉が、不気味な呪いのように耳の奥に残っている。教会は一時的に退いただけで、決して諦めたわけではない。神殿の権威と辺境伯の武力。この巨大な二つの波の間で、小さなルーテ村は今後も翻弄され続けるのかもしれない。
しかし、少なくとも今日、この日は、全てを守り抜いた。
鳥居も、社殿も、六柱の神域も。
そして、この村で暮らす人々の温かい笑顔も。
何一つとして、理不尽な権力に奪わせはしなかったのだ。
私は、竹箒を握り直し、教会の一行が馬の蹄で荒らしていった広場の土を、静かに掃き始めた。
サッ、サッ、と一定のリズムで。
辺境伯の旗と、六柱の御札が見守る中で。
神主の変わらない日常が、またここから始まる…はず!




