第91話「山と剣」
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最初に異変に気づいたのは、神殿騎士たちの乗る軍馬だった。
馬たちが一斉に耳を伏せ、怯えたようにいななきながら、北東の方角へと首を向けた。
地面の奥深くを伝わってくる、腹の底を揺らすような重い振動。規則正しく、圧倒的な質量を伴い、凄まじい速度でこちらに迫ってくる無数の蹄の音だ。
ルシアンの冷徹な目が、わずかに細くなった。
「…何事ですか」
東の山脈へと続く草原の奥から、空を覆うほどの巨大な土煙が上がり、村の広場へ向かって一直線に雪崩れ込んできた。
神殿騎士の八騎などとは比較にならない。大地を砕くような重低音。
分厚い土煙の壁を切り裂くようにして、一本の巨大な旗が春の陽光の下に顕現した。
漆黒の背景に、峻厳なる山と、それを貫く一本の剣。
北の絶対的領主、辺境伯モンテフェルト家の『山と剣』の紋章旗。
旗の下に、陽光を弾いて鈍く輝く鋼の塊が続いた。頭の先から馬の胸元までを分厚い重装甲で覆い尽くした、完全武装の重装騎兵の隊列。
前衛に六騎の正規騎士。その後方に、重い長槍を天に突き上げた十二名の従士。計十八騎。全員が辺境伯の紋章を胸に刻み、一糸乱れぬ完璧な陣形で地響きを立てて駆けてくる。
そして、その圧倒的な武力の塊の中央。
十八騎の精鋭に守られるようにして、一人の白い髭の老人が、栗毛の馬に跨って悠然と手綱を握っていた。
擦り切れた外套。腰に佩いた白翼の剣。どこまでも飄々とした、見慣れた好々爺の顔。
広場が、一瞬の完全な静寂の後、爆発的な騒乱に包まれた。
村人たちから、悲鳴にも似た歓声が上がった。「グラキウスさんだ!」「グラさんが帰ってきた!」。マルタの腕を振りほどいたリーナが「グラさーん!」と叫びながら駆け出そうとし、ダリオが慌ててその小さな体を抱き止める。
地響きを立てて広場に雪崩れ込んできた十八騎が、ルシアンたちの数十メートル手前で、まるで一つの生き物のようにピタリと停止した。
ザァッ、と横一列に展開した重装騎兵たちが、長槍の穂先を一斉に教会の騎士たちへと向ける。辺境伯の旗が、聖旗と侯爵旗の真正面で、それらを威圧するように力強くバタバタと翻った。
グラキウスが、ゆっくりと馬から降りた。
土埃を払いながら、広場の中央を悠然と歩いてくる。
ルシアンを一瞥する。ヴィヴィアンを一瞥する。そして、顔面蒼白になっている神殿騎士たちを一瞥し、最後に、ゴルドと私の横に、いつものようにふらりと並び立った。
「…遅くなったな、ハル殿」
「いえ。ちょうどいい時に帰ってきてくださいました」
「道を一度しか間違えなかった。うんと褒めてもらいたいところだが」
「褒めます。一度だけなら、奇跡に近いです」
グラキウスが、白い髭の奥で嬉しそうに鼻を鳴らした。
そして、その顔からふっと人の良さそうな笑みを消し、氷点下の眼差しでルシアンの方へ向き直った。
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ルシアンの顔から、あの完璧な微笑みが完全に消え失せていた。
辺境伯の紋章旗。そして、若年の神殿騎士などとは比べることが憚れるほど洗練された動きを見せる重装騎兵が十八騎。
それが何を意味するか、侯爵の血を引き、政治の裏表を知り尽くしたこの男が理解できないはずがない。辺境伯の領地において、辺境伯の正規軍が明確な敵意を持って展開しているということは、このルーテ村が『辺境伯の完全な庇護下』に入ったことの疑いようのない物理的証明だ。
「…これは。辺境伯モンテフェルト家の旗ですか」
「ああ」
グラキウスが、腹の底に響くような重い声で簡潔に答えた。
「辺境伯アルベルト・ディ・モンテフェルト閣下の命により、このルーテ村は、辺境伯領の正式な庇護下に置かれた。税の取り決めも既に済んでいる。この村は辺境伯の領地であり、村人は辺境伯の誇り高き領民だ。以上が、わしがここに兵を連れて立っている理由だ」
ルシアンの宝石のように硬い目が、一瞬だけ、ほんのわずかに揺らぎを見せた。
辺境伯。それは国境防衛の要として、国王にすら諮ることなく独自の軍事行動を起こせる特権を持つ、極めて独立性の高い軍事貴族だ。
その辺境伯の庇護下にある領民に対し、教会の名の下に私兵を動かして強制執行を行えば、それは明確な『辺境伯領への領土侵犯』であり、統治権に対する直接的な宣戦布告となる。いかに教会の権威が強大であろうと、国境を守る最強の軍事組織を敵に回すことは、ルシアンの政治的計算において完全に破綻を意味していた。
「…なるほど。辺境伯の庇護ですか。それは予想外の一手でした」
ルシアンの声は、依然として穏やかだった。だが、その声の質は先ほどまでとは明確に違っていた。弱者をいたぶる余裕からくるものではなく、致命的な状況の変化を脳内で猛烈な速度で再計算し、次の手を模索している間の仮面としての穏やかさだ。
「グラキウス殿、とお呼びすればよろしいですか。あなたは、辺境伯閣下の使者ですか。それとも…」
「辺境伯には、昔少しばかりの縁があってな」
「縁。…なるほど」
ルシアンが、グラキウスの顔を穴が開くほど見つめた。
十八騎の精鋭を「ただの縁」で動かせるはずがない。この老人の異常なまでの肝の据わり方、そして指揮系統の不自然さ。ルシアンの明晰な頭脳が、教会の過去の記録と目の前の老兵を何らかの形で結びつけようとしている。だが、確信には至らなかったようだ。
「司祭殿」
グラキウスが、ルシアンの思考を断ち切るように、一際強く言い放った。
「辺境伯閣下のお言葉を、一言一句違わずそのまま伝える。『わしの領地でどのような信仰が営まれようと、それは領主の裁量の範囲内だ。教会が異端を云々して騒ぎ立てるなら、まずロッカグァルディアの城に直接話を通してもらおう。辺境伯の許可なく、わしの領民の村に土足で踏み入ることは、絶対に許さん』。以上だ」
広場に、重く冷たい静寂が降りた。




