第9話「蠢く泥の気配」
◆◇◆◇◆
夜。ゴルドの家でささやかな酒宴が開かれた。
カイルたちが村に来るたびに行われる恒例行事らしい。
ゴルドが自作の麦酒を振る舞い、マルタが薬草の取引の相談をし、村人たちがこの数ヶ月の出来事を報告する。冒険者にとっては辺境の情報収集の場であり、村人にとっては街の情勢を知る貴重な機会だ。
私も招かれていた。断る理由もないので、部屋の端に座って静かに木杯を傾けている。パチパチと燃える暖炉の火の暖かさと、肉の焼ける香ばしい匂い。素朴な麦酒は前世の酒に比べれば荒削りな味だが、土の匂いがして嫌いではない。
「ハルさん、飲んでる?」
リーナがゴルドの膝の上から声をかけてくる。この子は酒宴になると大人たちの話を聞きたがって、いつも特等席を占領するらしい。
「少しだけね。飲みすぎると明日の朝の掃除に差し支えるので」
「ハルさん、ほんと掃除のことしか考えてないよね」
「大事なことですから」
カイルが、焚き火越しにこちらを見ていた。酒宴の間もずっと、さりげなく私を観察している。
「ハルさん、少し聞いてもいいか」
「どうぞ」
「あんたの弓。ゴルドから聞いた話だと、百五十メートル先の移動目標の急所を三射連続で外さなかったそうだが」
「ゴルドさん、細かいところまで見てたんですね」
カイルの隣で、弓使いのピートが身を乗り出した。
「百五十メートルって…俺の短弓の有効射程の倍以上だ。しかも魔法の風も使わずに、移動目標の急所に当てるなんて、正直信じられない」
「弓が良いんですよ。あとは、まあ…修練の蓄積です」
「修練か…」
カイルが表情を引き締め、暖炉の火から目を離して真っ直ぐに私を見た。
「ハルさん、もう一つ聞きたい。最近、街の方でも森の魔物が活性化しているという報告が増えている。ギルドが本格的な調査に乗り出す話もある。この辺りで、何か変わったことは感じていないか」
「…」
この問いには、正直に答えた方がいいだろう。
「感じています。森の奥の『穢れ』が、少しずつ濃くなっている気がします。先日の魔獣の群れも異常でした。十五体が一度に、しかも村を目掛けて一直線に突っ込んでくるなんて、普段はないことです」
「やはりか」
カイルが仲間に目配せした。ヨルンが重々しく頷いている。
「俺たちも偵察で気づいた。村の周辺は嘘みたいに静かだが、あんたの結界の外側、特に森の深い方から嫌な気配がしている。何かが森の奥で魔物を押し出しているのか、それとも魔物そのものが増殖しているのか」
「今の私にはそこまでは分かりません。ただ…」
「ただ?」
「穢れの質が変わっている気がします。以前はただ澱みが濃いだけだったのが、最近は何か『明確な意志』のようなものを感じることがあります。ちゃんと確かめたわけではないので、気のせいかもしれませんが」
カイルの表情が剣呑なものになった。温かい酒宴の空気が、一瞬にして冷え込む。
「意志…か」
セラが杯を置いた。
「カイル、明日もう少し奥まで偵察するか?」
「ああ。そのつもりだ。…ハルさん」
「はい」
「明日、俺たちは森の奥を偵察する。村のことは頼んでもいいか」
不思議な言い回しだった。つい数日前まで、この村を魔物の脅威から守っていたのはカイルたちの方だったはずだ。それが今、歴戦の冒険者であるカイルの方から私に村を「頼む」と言っている。
「ええ。留守は預かります」
カイルが頷いた。杯を掲げ、「助かる」とだけ言って飲み干した。
◆◇◆◇◆
酒宴が終わり、村人たちがそれぞれの家路についた後。
私は社殿に戻り、裏手を流れる小川で手と顔を洗っていた。
秋の冷たい水が肌を刺す。酒の気を抜くのと、軽い禊を兼ねて。
見上げれば、夜空には無数の星が瞬いている。この世界の空は、前世よりも星が近く、大きく見える。
水を浴びながら、カイルの言葉を反芻する。
森の奥の魔物が活性化している。穢れが濃くなっている。街でも報告が増えている。
そして私が感じた、穢れの中の「意志」。
酒の席では軽く流したが、実際にはかなり気になっている。
穢れは本来、水溜まりのように自然に溜まっていくものであり、意志を持たない。そこに「意志」が感じられるということは、穢れを操っている何者かがいるか、あるいは穢れの塊そのものが自我を持ち始めているかだ。
どちらにしても、放置して良い話ではない。
…でも、今の私にできるのは、この神域を守ることだけ。結界の範囲を広げるには、もっと信仰の力が要る。
いや、やめよう。考えすぎだ。明日の掃除のことを考えよう。
社殿に戻り、五柱の御札の前に正座して手を合わせた。
「…五柱の大神様。今日も一日、ありがとうございました。明日もどうか、この地をお守りくださいますよう」
板間に横になる。檜の香り。虫の声。
目を閉じると、今日のことが順番に蘇ってくる。カイルたちの到着。鳥居の前での彼らの反応。酒宴での会話。
カイルという男は、悪くない。義侠心で辺境の村を助けに来る冒険者。自分の腕にも確かな矜持がある。だからこそ、私の力を正確に測ろうとしている。それは敵意ではなく、生き残るための誠実さだろう。
だが、カイルは街に戻る。そして街には人がいる。人がいれば、噂は広まる。
鳥居のこと。結界のこと。百五十メートル先の急所を射抜く弓のこと。
広まってほしくない。でも、人の口を止めることはできない。
…まあ、なるようにしかならないか。
眠りに落ちる直前。
風に乗って、微かな、だがひどく生臭い『泥』のような気配が鼻を突いた。森の方角からだ。
穢れ。
薄いが、確かに昨日より濃く、そして森の奥の闇がまるで一つの巨大な生き物のように蠢いている錯覚を覚える。
私はゆっくりと目を開けた。闇の中で、天井の木目をしばらく見つめていた。
「…明日、カイルさんたちには念を入れて気をつけるよう言っておこう」
それだけ呟いて、私は再び目を閉じた。
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