第88話「交わらない問答」
◆◇◆◇◆
三日後。
今度は本隊とも呼ぶべき重厚な隊列が姿を現した。
先頭に、二本の巨大な旗が風を孕んで掲げられている。
一本は、巨大な太陽の紋章を金糸で染め抜いた、ソル・デウス教の聖旗。
もう一本は、赤と金の豪奢な意匠を施した、アルトワ侯爵家の侯爵旗。
聖なる信仰と、俗世の暴力。この大陸を支配する二つの権威が、並んで翻りながらこの辺境の村に押し寄せてきたのだ。
二本の旗の後ろに、真っ白な法衣の男が一人、白馬に乗って進んでくる。さらにその後ろには、全身を白銀の鎧で包み、抜き身の槍を構えた神殿騎士が八人。先日の先触れであるヴィヴィアンが、法衣の男の斜め後ろに付き従っている。
総勢十人の物々しい一行が、広場にいたゴルドの手前でピタリと停止し、法衣の男が、優雅な動作で白馬から下りた。
三十代後半。すらりとした長身に、極上の絹で仕立てられた白い法衣が完璧に映えている。薄い金色の髪を後ろにきっちりと撫でつけ、彫りの深い整った顔立ちには、極めて高い知性と、温度を感じさせない冷酷さが同居していた。
薄い唇に浮かぶ微笑はどこまでも穏やかだが、その瞳の奥には一片の温もりもない。緻密にカットされた宝石のように美しく、そして宝石のように硬く冷たい目だ。
「村長殿。お初にお目にかかります。ソル・デウス教グランヴェル大聖堂巡回司祭、ルシアン・アルトワと申します。どうぞ、お見知りおきを」
流麗な口調。王宮の夜会にでもいるかのような完璧な貴族の所作。
だが、その背後でバタバタと翻る聖旗と侯爵旗の存在が、この男の口から発せられる言葉の全てに、逆らうことを許さない巨大な圧力を加えている。
ゴルドが、額に冷や汗をにじませながら深く頭を下げ、名乗り返した。声が硬く、強張っている。
「…私が、このルーテ村の村長を務めております、ゴルドと申します」
「ええ、存じております。先日、ヴィヴィアン助祭から詳細な報告を受けました。教会が存在しない、司祭もいない、洗礼の記録すら一つもない。そして、あの、理解し難い異教の門」
ルシアンの氷のような視線が、私の背後にある黒漆の鳥居に向いた。
その目が、一瞬だけ、極端に細まった。
草むらの中に、自分を殺せる猛毒の蛇を見つけた時のような、冷たく鋭利な光。
「実に興味深い。あれほど見事な造形と存在感を持つ異教の構造物を、このような辺境の果てで拝見できるとは、夢にも思いませんでした」
ルシアンの背後から、ヴィヴィアンが甲高い声で口を挟んだ。
「ルシアン様! 先日、あの門の管理者を名乗る男が、わたくしの撤去勧告を公然と拒否いたしました! 教会の絶対の権威に逆らったのです! 直ちに異端として」
「まあまあ、ヴィヴィアン」
ルシアンが、白手袋に包まれた片手を優雅に上げて、助祭の金切り声をピシャリと遮った。
「そのように大声を荒らげては、あなたの美しい喉が傷つきますよ。このような辺境の…泥と獣にまみれた素朴な方々を相手に、いちいち気を揉む必要などありません」
限りなく穏やかな口調。だが、「泥と獣」「素朴な」という言葉の一つ一つに、磨き上げられた純粋な侮蔑が刃のように込められている。
ルシアンが、ゆっくりと私の方へ向き直った。
「あなたが、件の神主殿ですね。藤原春暁、とおっしゃいましたか」
「はい」
「少し、お話を伺ってもよろしいですか。あなたがここで祀っているものは何か。あなたが日々行っている儀式は何か。そして、あなたが信じているものは、一体何なのか」
優しげな問いかけ。だが、それが彼の頭の中で行われている異端審問の第一歩であることは明白だった。
「お答えします。ですが、その前に一つだけ言わせてください。私は、誰の信仰も否定したことはありません。あなたがたのソル・デウス様を冒涜したことも、ただの一度もない。この村の人々は、ソル・デウスの名を日々の生活で口にしながら、同時にこの鳥居の向こうの自然に感謝しています。両方は、この村で共存しているのです」
「…共存。なるほど、面白い言葉を使われますね」
ルシアンの薄い唇の端が、わずかに吊り上がった。
「ですが、藤原殿。ソル・デウス様の教えは、この世界において極めて明確です。『光の外に神なし』。唯一神以外のいかなる力も、いかなる奇跡も、教義上絶対に認められません。あなたがどのような善意でそれを行っていようと、唯一神以外の存在に祈りを捧げる行為そのものが、教義に対する反逆なのです」
「なぜですか」
私は、心の底からの純粋な疑問を口にした。彼の論理が、根本的に理解できなかったからだ。
「なぜ、一柱の神に祈り、信じることが、他の全ての神を否定することに繋がるのですか。私がこの土地の神に感謝し、落ち葉を掃くことが、なぜソル・デウス様への冒涜になるのですか。どちらも敬い、共に祈ればいいではありませんか」
ルシアンの宝石のような目が、その瞬間、一瞬だけ驚きに大きく見開かれた。
それは、教義に対する屁理屈や反論への怒りではなかった。
目の前に立つこの男が、教義の前提にある「なぜ」を、本気で、心底から理解できていないことへの純粋な驚愕。
ルシアンはこれまで、教義を否定する異端者や悪魔崇拝者を数多く火あぶりにしてきた。だが、教義のルールそのものが全く通じない、思考の前提が完全に異なる人間を見たのは、彼の人生で初めてだったのかもしれない。
「…藤原殿。あなたは教義を知らないから反抗しているのではなく、教義の根本的な概念すら理解できないのですね。なるほど、これは私が思っていたよりも、はるかに根が深い」
ルシアンが、カツンと硬い靴音を鳴らして、私へ向かって一歩近づいた。
「よろしい。では、獣にも分かるように、極めて単純にお伝えしましょう」
彼の声が、一段下がった。表面の穏やかさはそのままに、その奥底に絶対的な、鉄の響きが加わった。
「あなたが何を信じていようと、何を祀ろうと、個人の自由です。構いません。ただし、それを『ソル・デウスの教えが行き渡るこの大陸の大地の上』で行うことは、絶対に許されない。この世界の秩序は、ソル・デウス様の教義の上にのみ成り立っています。その秩序の外にある力は、たとえそれが人々を救う善意から生まれた奇跡であっても秩序を根底から破壊する『異物』なのです」
「異物…」
「ええ。あなたは、排除されるべき異物です。そしてあの黒い門も、あの粗末な建物も。この村の善良な民の魂を唯一神の光から引き離す、極めて危険な汚染源に他ならない」
紡がれる言葉はどこまでも優雅で穏やかだった。だが、その内容は首元に突きつけられた冷たい刃そのものだった。
ヴィヴィアンが、背後で勝利を確信したような得意げな顔をしている。ゴルドがギリギリと拳を震わせ、カイルがいつでも剣を抜けるよう重心を落とし、唇を噛みしめている。遠巻きに見守る村人たちが、恐怖で青ざめている。
「さて、藤原殿。巡回司祭としての権限と、アルトワ侯爵の名代として、正式に以下を命じます」
ルシアンが、法衣の袖から丸められた上質な羊皮紙を取り出した。
教会の巨大な印章と、アルトワ侯爵家の封蝋が押された、絶対の権力を持つ正式な命令書。
「一つ。あの門の即時撤去。二つ。あの建造物の完全な解体。三つ。藤原春暁を異端の容疑で審問するため、グランヴェル大聖堂への出頭を命じる。以上三点を、七日以内に完全に履行すること。従わない場合は…」
ルシアンが、満面の微笑みを浮かべた。
狂気すら感じるほどに美しく、そして絶対的に冷酷な笑み。
「教会法に基づく強制執行を行います。その際の村への損害と流血の責任は、全て、神の教えに従わなかった側にあります」
広場の空気が、完全に凍りついた。
七日。
グラキウスが辺境伯を連れて戻るまで、あと何日かかるか分からない。辺境伯の旗という盾が届かなければ、この男の暴力的な命令を拒否する法的根拠が、この村には何一つない。
だが。
「お答えします、ルシアン殿」
私は、竹箒をしっかりと握り直し、真っ直ぐに一歩前に出た。
「鳥居は撤去しません。社殿も壊しません。私は、誰の審問も受けませんし、どこにも行きません。この村の人々が、この鳥居と社殿の恩恵を受けて平穏に暮らしている限り、私はここで毎日の掃除を続け、この場所を守ります」
「…拒否、ですか。教会の正式な命令を」
「はい。完全にお断りします」
ルシアンの瞳が、わずかに細くなった。
怒りではない。純粋な興味だ。罠にかけたはずの獲物が、全く予想外の不可解な動きをした時の、冷酷な狩人の目。
「よろしい。七日後に、また参ります。その時に、あなたのその傲慢な答えが変わっていないことを、私としても、心から祈っておりますよ」
ルシアンが白馬に跨り、手綱を引いた。
聖旗と侯爵旗が春の風に翻り、十人の重武装の一行が、再び南へと去っていく。神殿騎士たちの纏う白銀の鎧が、沈みかけた陽光を冷たく反射していた。




