第87話「理不尽」
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先触れが去った直後、ゴルドが重い足取りで私の前に来た。
この不器用で誠実な村長の顔には、村を理不尽に脅かされた怒りと、教会の権力に対する無力な屈辱、そして村人たちを守らなければならないという長としての焦燥が、ぐちゃぐちゃに入り混じっていた。
「…ハルさん。あの女の言ったことは、本気だと思うか?」
「本気でしょうね」
「トリイを撤去しろ。社殿を壊せ。従わなければ、村ごと異端として裁く。…そんな理不尽が、本当にまかり通るのか」
「教会の力が、それだけ強大で絶対的だということでしょう。そのあたりは、ゴルドさんの方がよく知っているのでは?」
ゴルドの顔が、さらに険しく、苦痛に満ちたものに歪んだ。
太い指で自身の顔を覆い、腹の底から絞り出すように、重く長い息を吐き出す。
「…ああ。知っているさ。知っているからこそ、信じたくなかったんだ」
ゴルドの視線が、広場の端、今は新しい住居の基礎が打たれているさらに奥の空き地へ向けられた。
「二十年以上前。この村にまだ大勢の旅人や商人が行き交っていた頃、あそこにはソル・デウスの小さな礼拝堂があった。司祭も一人、常駐していた」
「あったのですか」
「ああ。だが、村が寂れ始めた頃に、ひどい火事の飛び火で全焼しちまってな。ちょうど交易路が閉ざされ、村人が食うや食わずの生活に追い込まれた時期と重なった。礼拝堂を再建する金も、人も、木材すらなかった。司祭は『教会に支援を要請する』と言って街へ帰ったきり、二度と戻ってこなかった。…それ以来、二十年間。教会は俺たちを完全に見捨てていたんだ」
ゴルドが、ギリッと大きな音を立てて奥歯を噛み鳴らした。
握りしめた両拳が、怒りで微かに震えている。
「教会の恐ろしさは、昔から骨の髄まで知っている。異端と認定された村が、神殿騎士団に火を放たれ、女子供まで広場で生きたまま焼かれたという話は、若い頃に何度も聞いた。あいつらは、唯一神の名の下になら、どんな残虐なことでも平然とやってのける。…だがな」
ゴルドが、顔を上げて漆黒の鳥居を真っ直ぐに見つめた。
「この二十年、俺たちが泥水すすって飢え死にかけていた時には、救いの手一つ差し伸べなかったくせに。あんたが来て、村がやっとの思いで豊かになった途端に嗅ぎつけてきて、今度は全てを壊せと宣う。…そんな身勝手な理不尽が、神の意志であるものか」
怒りと、どうしようもない無力感。
ゴルドの「本当にまかり通るのか」という言葉は、無知からくる疑問ではなかった。あまりにも自分勝手な教会の権力に対する、長としての血を吐くような憤りだったのだ。
傍らで聞いていたカイルが、重い声で口を開いた。
「まかり通るんだよ、ゴルド村長。奴らの間ではな」
歴戦の冒険者の顔にも、隠しきれない焦燥が浮かんでいた。
「あの助祭が最後に口走った『ルシアン様』という名前。…ルシアン・アルトワだ。南のアルトワ侯爵の甥でありながら、グランヴェル大聖堂の巡回司祭を務めている。教会の中でも、異端排除を掲げる強硬派の筆頭として知られている男だ」
「アルトワ侯爵の甥…カーム村から若者を根こそぎ奪った、あの侯爵の」
「ああ。大貴族の選民思想と、教会の狂信が一人の男の頭の中で完全に同居している。あの手の人間は、自分が絶対的な正義であり、神の代行者だと心の底から信じ込んでいる分、いかなる論理的な交渉も、情への訴えも通じない」
春の風が、鳥居の前を冷たく吹き抜けた。
「…グラキウスは、いつ戻る?」
ゴルドは深く息を吸い込み、縋るような、焦燥しきった声で私を見た。
「…どれだけ迷うか次第でしょう。仮に、出立の時に言っていた往復二ヶ月以内が現実的な日数なら、まだ一ヶ月以上先です」
「…そうか、間に合わんか」
しめ縄から下がる白い紙垂が、かさかさと乾いた音を立てて、不吉な予感のように揺れていた。




