第78話「蹄の音」
◆◇◆◇◆
その晩。ゴルドの家の前の丸太の椅子に、いつもの三人が座っていた。
村がどれだけ大きくなっても変わらない、夜の麦酒の時間。だが今夜は、少し口に含んだだけで、グラキウスの方から静かに話を切り出した。
「ゴルド。辺境伯の件だが」
ゴルドが、手元の木杯を膝に置いた。
「ああ。そろそろ本気で動かねばならんな。カーム村の八十人が到着する前に、辺境伯の庇護の約束を確実に取り付けておきたい。アルトワ侯爵の領民を丸ごと受け入れるとなれば、政治的な強固な後ろ盾がなければ、侯爵に因縁をつけられた時に、対抗する術がない」
「…わしが、使者として行こう」
ゴルドの太い眉が、ピクリと跳ね上がった。
「あんたが?」
「ああ。辺境伯の領都、そして居城がどの辺りにあるかは知ってる。馬を一頭借りられれば、二週間もあれば着くだろう」
「あんたのあの絶望的な方向感覚で、二週間で着くのか」
「…三週間かもしれん」
「一ヶ月と見ておいた方がいいな」
ゴルドが、呆れたように深い溜息をついた。だが、グラキウスが使者に行くこと自体には、一切反対しなかった。
この得体の知れない老人が、辺境伯に対して何らかの「極めて強い伝手」を持っていることを、ゴルドは薄々感じ取っているのだ。直接問い詰めたことは一度もないが、この辺境で村長を張ってきた男の、鋭い嗅覚がそう告げているのだろう。
「グラキウスさん。辺境伯に会えたとして、何と伝えますか」
「ルーテ村が、二十年前と変わらず健在であること。辺境伯領の一員として、庇護と義務の正式な関係を結びたいこと。それに伴う税を納める準備が整っていること。そして…近く、南の侯爵領から難民を受け入れる予定であり、彼らを辺境伯の新たな領民として迎え入れてほしいということ。…それだけ伝えれば、十分だ」
「門前払いにされませんか」
「されん」
短い、しかし鋼のように硬い一言だった。
その絶対的な確信の根拠を、グラキウスは語らなかった。ゴルドも私も、それ以上問うことはしなかった。
「…いつ発つ」
「明後日の朝。足の速い馬を一頭、借りたい」
「好きなのを選べ。盗賊の置き土産が十頭もいるんだからな」
グラキウスが木杯の残りを一気に飲み干し、春の夜空を見上げた。今夜は、星の瞬きが異常に多い。
「道中、お気をつけて。どんなに道を間違えても、いずれは着きますから」
「…三回は間違える前提で言うな」
「一本道で三回迷って森から出てきた前科がありますからね」
グラキウスが鼻を鳴らした。白い髭の奥で、苦笑しているのか照れているのか、判別がつかなかった。
◆◇◆◇◆
二日後の早朝。
グラキウスが、最も足回りの良さそうな一頭の栗毛の馬に跨り、村の広場を出発しようとしていた。
腰には白翼の剣を佩き、背には水と干し肉を詰めた最低限の荷物。古ぼけた外套をすっぽりと羽織り、豊かな白い髭に朝日が当たって銀色に光っている。
見送りは、極力少人数にした。ゴルドと私と、リーナの三人だけだ。
村人全員で見送るような真似をすれば、ただでさえ移住者で揺れている村に無用な不安を煽ることになる。あくまで、グラキウスが「ちょっと遠方まで用事を済ませてくる」程度の体裁にしておくのが得策だった。
「グラさん、行っちゃうの?」
「ああ。少し遠いところに、用事があってな。二ヶ月以内には戻る」
「二ヶ月も? すっごく長いよ」
「年寄りの足だからな。若い者なら半分で行ける距離だが」
「迷子にならないでね。ちゃんと道わかる?」
「善処する」
リーナがコロコロと笑った。グラキウスも好々爺の顔で目を細めて笑った。
ゴルドだけが笑っていなかった。この村長は、グラキウスの旅が単なる遠出などではなく、この村の存亡を懸けた命綱であることを完全に理解している。
「…無事に帰ってこい、グラキウス」
「帰ってくるさ。あのしょっぱい芋の煮物を食わねばならんからな」
栗毛の馬が、一声短く嘶き、古い交易路を北に向かって歩き出した。
グラキウスの丸まった背中と白い髭が、春の朝風に揺れている。馬蹄の音が土を叩く音が少しずつ遠ざかり、やがて静寂へと完全に溶け込んで消えた。
広場を振り返ると、朝日を浴びた建設現場が、すでに凄まじい活気と共に動き始めていた。
ブルーノの弟子たちが汗を流して丸太を運び、ロザが図面を片手に鋭い指示を飛ばし、ダリオが木屑を吸い込んで盛大にくしゃみをしている。
グラキウスという強大な存在がいない朝。
少しだけ、広場がだだっ広く、心細く感じた。
だが、私にはやるべきことが山ほどある。カーム村から来る八十人の受け入れ準備、朱の精製の量産化、急増した子供たちのための学問所の拡大、迎賓館の運営。
そして何より…日課の境内の掃除と祝詞の奉上。
私は新しい竹箒を手に取り、社殿の前をサッ、サッ、といつものリズムで掃き始める。
見上げれば、板壁に並んだ六枚の御札が、眩しい朝日の中で静かに、力強く輝いていた。




