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転生神主の日常 〜掃き清めた地が国となるまで〜  作者: 秋澄しえる


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第75話「白い影」

◆◇◆◇◆


 ルーテ村から遥か西方。


 内海とも呼べるほど広大な淡水湖に面した自由都市サンテロ。


 西の空が血のような橙色に染まり、湖面に反射した夕日が街全体を強烈な逆光で焼き付けている。無数の帆船が行き交い、桟橋では水夫たちの怒号と荷下ろしの軋み音が絶え間なく響き渡る。淡水魚の生臭さ、異国から運ばれてきた香辛料のむせ返るような匂い、そして金貨を求める人間たちの泥臭い欲望が、湿った湖風に乗って街の隅々にまで渦巻いていた。


 その港の喧騒から一本路地に入った、薄暗い酒場。


 長年の油煙とタバコのヤニで黒ずんだ板壁。エール酒の酸っぱい匂いと、安物の肉を焼く煙が視界を白く濁らせている。天井から吊るされた脂ぎったランプの炎が、不規則に吹き込む風に煽られて壁に奇妙な影を踊らせていた。


 その猥雑で熱気にあふれた空間の片隅。


 カウンターに肘をついた恰幅の良い商人が、隣の席の仲間の肩を激しく揺さぶり、血走った目で唾を飛ばしていた。


「だから、信じろって! 俺はこの目で確かに見たんだ。あの古い交易路の先にある辺境の村、ルーテ村がとんでもないことになっている。あの精緻な竹細工だけでも大したもんなのに、今度は『朱塗りの漆器』が出たんだよ。あの赤を見たか。ただの赤じゃねえ。奥から炎が滲み出しているような、見る者の魂を灼き切るような赤なんだ。王都の宝飾ギルドの錬金術師どもがどれだけ金を積んで研究しても、あんな色は絶対に出せやしねえ」

「朱、だと? あんな端っこの、干からびた農民しかいないような村で、顔料の精製までやっているってのか」

「ああ、そうだ。原料の採掘から気の遠くなるような粉砕、不純物の分離まで、全部村の中で完結しているらしい。しかも、漆の下地を塗っている職人の腕が完全に常軌を逸している。鏡みたいに平らで、一切のムラがない。街でふんぞり返っている名工の最高級品を、辺境の木こり上がりが平気な顔で超えてきやがったんだ。あれが市場に出回れば、俺たちの商売の常識が根底からひっくり返るぞ」

「だが、おかしな話じゃないか。二十年も放ったらかしにされていた村だぞ。なぜ急にそんな技術や富が湧いて出たんだ」

「そこなんだよ。あの村、どうもただの寒村じゃねえ。水もやたらうまいんだろう? この前行った連中が口を揃えて言っていた。ただの井戸水なのに、飲むと長旅の疲れが嘘みたいに消し飛んで、持病の痛みが引くって噂まである」

「ああ、俺も聞いた。水だけじゃない。村の空気そのものが異常に澄んでるって話だ。それと…黒い、変わった門があってな。極上の黒漆を分厚く塗った、二本の柱の巨大な門だ。あの門の近くにいると、重い荷物を持った肩の痛みが消えて、体が妙に軽くなるんだよ。俺の馬なんて、あの門の前から離れようとしなくて苦労したくらいだ」

「なんだそれ。いよいよ怪しい話になってきたな」

「怪しいといえば、黒狼団の残党が酒場で喚いていた話を知ってるか? あの村を夜襲しようとしたら、見えない弓矢が飛んできて、乗っていた馬が突然狂ったように暴れて透明な壁みたいなものに弾かれたって。それで、剣を持った白ひげの爺さんが一瞬で仲間を蹴散らしたらしい」

「透明な壁だの、見えない矢だの。まるで魔法か呪いだな」

「呪いかどうかは知らんが、行けば分かる。あの黒い門の奥に、いつも真っ白な衣を着た、妙に静かな若い男がいるんだ。そいつが何か得体の知れないものを祀っているらしい。魔物を祓う不思議な力を持っているって話だ。だが、あいつのやっていることは、俺たちが知っているソル・デウス様の教会の教えとは全く違う。十字も切らねえし、聖典も持たねえ。見たこともない様式の、異国の呪文みたいなものを唱えていて…」


 酒場の最も奥の隅。

 ランプの光すら届かない薄暗い卓で、一人の人物が音もなく座っていた。


 周囲のどんちゃん騒ぎや酔っ払いの怒声とは完全に隔絶された、そこだけが別の次元に切り取られたかのような、氷河のように冷たい静寂。


 頭から深く被った、純白の法衣。


 その胸元には、銀色の糸で緻密に刺繍された太陽の意匠が、薄暗がりの中で青白く光を反射している。この大陸の信仰を束ねる唯一神、ソル・デウス教の聖職者が纏う、正式な法衣だ。


 その人物の前のテーブルには、安酒の入った木杯が一つ置かれているだけだった。酒を飲むでもなく、卓の上の干し肉に手を伸ばすでもなく、ただ石から切り出された彫像のように静止したまま、商人たちの会話の全てに、冷徹に耳を傾けていたのだ。


 深く被ったフードの奥で、感情を一切排した瞳が、ゆっくりと瞬きをした。


 『癒しの水』『魔を弾く黒い門』『ソル・デウスの教会とは違う様式』『奇跡を起こす白い衣の男』。


 それらの言葉が、彼の脳内で、異端という強烈な烙印へと変換されていく。唯一神の教義から外れた奇跡は、例外なく悪魔の所業であり、全て等しく浄化されなければならない汚物だ。


 法衣の人物が、衣擦れの音一つ、床を踏む足音一つ立てず、まるで幽霊のように静かに席を立った。


 近くで飲んでいた商人の一人が、ふと無意識に首筋を擦り、怪訝な顔をして背後を振り返った。


「…なんだか、急に背筋に寒気がしねえか? 誰かに睨まれているような…」

「気のせいだろ、冷たい湖風の吹き込みすぎだ。それより、その村の場所を詳しく教えろ。次の市には俺も!」


 商人たちが笑い飛ばしたその瞬間。

 重い酒場の扉が、わずかな軋み音を立てて開閉した。入り込んできた湖の冷たい夜風がランプの火を一瞬だけ激しく煽り、酒場の熱気を一気に凍りつかせた。


 白い背中が、夕暮れの冷たい石畳の影へと完全に消え去る。


 後に残されたのは、一口もつけられずに置かれた酒杯と不気味な余韻だけ。酒場にいた商人たちは誰一人として、教会の影がそこに座っていたことすら、最初から最後まで気づいていなかった。

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