第74話「次の約束」
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春の市は大成功を収めた。
朱塗りの漆器は、値段をつけられなかったにもかかわらず、その存在だけで商人たちの脳を完全に支配し、次の市への期待値を限界まで引き上げた。
通常の竹細工や竹の水筒も前回を上回る高値で飛ぶように売れ、マルタが用意した辰砂の原石の粉末にも信じられないほどの値がついた。村にもたらされた金貨の重さは、前回の初市をはるかに凌駕している。
ヴィクトル率いる鉄蜂の八人は、市の間中、武器を構えて村の外周と交易路を厳重に巡回し続けていた。先の夜襲で生き残った盗賊たちがサンテロの街で「呪いの村」の噂を広めてくれた効果も絶大だったらしく、不審な影が覗くことは一度もなかった。
夕暮れ時。市が終わり、商人たちが満載の荷馬車を連ねて帰路につく。
ペドロが先頭の馬車の御者台に座り、最後に振り返ってこちらに向かって大きく手を上げた。
「次は夏の終わりだ。その時には、あの朱塗りの値段をきっちり決めておいてくれ。…街のでかい商会がこの村の匂いを嗅ぎつける前に、な」
九台の荷馬車と八人の重武装の冒険者が、西に傾く春の陽光の中を真っ直ぐに去っていく。
馬蹄が規則正しく土を叩く音と、車輪の重い軋みが少しずつ遠ざかり、やがて村にいつもの静寂が戻ってきた。
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賑やかな市が去った、翌日の朝。
私は社殿の前に立ち、いつものように竹箒でサッ、サッ、と一定のリズムで地面を掃いていた。
視線を上げれば、簡素な木造の社殿の板壁に、六枚の御札が静かに並んでいる。
天の五柱と、地の一柱。
この六柱の調和が生み出す不可視の神域が、鳥居を中心として村を包み込み、悪意を弾き、水を甘く清め、竹の成長を促し、森の穢れを癒し続けている。
村人たちの多くは、その精緻な仕組みなど知る由もない。ただ「最近、水がさらにうまくなった」「前に病気したのいつだっけ?」「竹が真っ直ぐ育つようになった」と、日々のささやかな変化として受け入れているだけだ。
それでいい。信仰というものは、世界の理の理解から始まるのではない。与えられた恵みへの、純粋な感謝から始まるものなのだから。
ゴルドが、足早に広場を横切っていくのが見えた。
道普請の疲れと市の後片付けで休みたいはずなのに、その広い背中には、重いものを背負い込んだような強い決意の念が漲っている。
領主である辺境伯への接触。この村の未来を守るための次の一手に向けて、彼は近いうちに必ず動き出すはずだ。
漆黒の鳥居の柱に背を預け、グラキウスが腕を組んで高い空を見上げていた。
いつも通り何を考えているのか全く読めない横顔だが、その圧倒的な武力と知性を持つ老人もまた、自らの内側で静かに何かを組み上げているのだろう。辺境伯との接触という政治的な盤面において、自分がどう動くべきか。
タッタッタッ、と軽い足音が小道を駆けてきた。リーナだ。
「ハルさん! 見て見て、手帳に『朱』って字を書いたの! これで合ってる?」
差し出された革の手帳のページを覗き込む。
黒いインクで、共通文字の「朱」という字が記されていた。画数こそ少ないが、横線と縦線の一本一本が、はみ出さないように極めて丁寧に引かれている。何度も何度も、蝋板の上で練習を繰り返した努力の跡が見て取れた。
「ええ、完璧に合っていますよ。とても上手に書けましたね」
「えへへ。私、この字、好き。赤くて、すごくきれいな色だったから」
リーナが、新しい世界を一つ、自分の手で書き留めた。
ただそれだけの日常の一コマが、春の陽光の中で、なぜかひどく眩しく感じられた。




