第72話「沸き立つ欲望」
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いよいよ、春の市の開始だ。
色鮮やかな異国の織物、金属製の鍋、ガラスの小瓶に入った香辛料。多種多様な商品が広場を埋め尽くし、商人たちの威勢の良い呼び声と、品定めをする村人たちの歓声が春の空気に混ざり合う。
今回は、村人たちの方から積極的に商人に声をかけ、商品の質を見極め、堂々と値段の交渉を行っている。
人混みの中を、リーナが真新しい革の手帳を両手でしっかりと握りしめて走り回っていた。
「ペドロさん! この手帳にもう半分も字を書いたよ! 見て、『羊』と『牛』、もう絶対に間違えないの!」
「大したもんだ。前に来た時は、地面の土に木の棒で書いていたのにな」
「蝋板も書きやすくていいけど、この手帳に残せるのが好きなの。一番上手に書けた字だけ、ここに残してあるんだ!」
市の熱気が最高潮に達した、昼下がり。
ブルーノの工房から、ダリオによって『それ』が慎重に運び出されてきた。
朱塗りの漆器。
広場の中央に特別に用意された木の台。ダリオがそこに真っ白な麻布を敷き、その上に、桐の箱から取り出した品々を一つずつ、息を殺して並べていく。
竹の杯、竹の小箱、竹の水筒。全てにブルーノの黒漆が極限まで滑らかな下地として塗られ、その上に、あの鮮烈な朱が命を吹き込まれたように乗っている。
数は決して多くない。ブルーノが自身の完璧な基準を満たしたものだけを厳選した結果、わずか十二点。だが、その一点一点が放つ存在感は、広場に並ぶどの異国の宝飾品よりも圧倒的だった。
商人たちが、何かに吸い寄せられるようにその白い台の周りに集まってきた。
最初に手を伸ばしたのは、やはりペドロだった。
震える手で朱塗りの杯を取り上げ、春の陽光に透かし、裏側の高台を確認し、親指の腹で表面の滑らかさを確かめ——そして、完全に石像のように固まった。
「…ペドロさん?」
「黙れ。今、わしの頭の中で、この色の持つ価値が計算できなくてひどく混乱している」
マルタが初めてこの色を見た時と、全く同じ反応だった。
純然たる美しさと、それが生み出すであろう莫大な金の幻影が、百戦錬磨の商人の脳髄を激しく灼き切っているのだ。
他の商人たちも次々に手を伸ばし、朱塗りの品を手に取っては、信じられないものを見るように目を剥いた。
「この赤は、一体何だ。王都の貴族の館でも、こんな色は見たことがないぞ」
「朱です。この村の山で採れる辰砂から精製した顔料を、漆に混ぜて塗っています」
「辰砂から? この辺境の村で、顔料の精製までやっているのか?」
「ええ。原料の辰砂も、下地の漆も、素体の竹も、全てルーテ村の土から生まれたものです」
商人たちの間に、静かな、しかし背筋が凍るような激しい動揺が伝播した。
朱の顔料そのものは、大きな街の巨大なギルドや加工業者がその製法と権利を独占している超高級品だ。それを、名もなき辺境の村が完全に自前で精製し、漆器という完成品に仕立て上げて売っている。原材料の全てが村の周辺で調達できるため、中間マージンという概念が存在しない。
しかも、漆の仕上げの質が常軌を逸している。街のどんな名工にも真似できないブルーノの異常なまでの技巧が、朱という色の暴力を、完璧な芸術の域にまで高めている。
「この杯、いくらで卸す」
「値段はまだ決めていません。今回はあくまで見本としてお出ししただけですので」
商人たちの間に割って入るように、マルタが進み出た。
その口元には、人の良さそうな、しかし底知れぬ深さを持った薄い笑みが張り付いている。
「値段は、次の夏の市で発表するよ。今日のところは、その目と手で、存分に感触だけを楽しんでいきな」
商人たちが一斉に色めき立った。
「次の市までなど待っていられるか!」
「今すぐ、言い値で構わないから値段をつけてくれ!」
「前金を置いていくから、俺の商会に優先して卸してくれ!」
マルタは、商人たちの悲鳴にも似た懇願を、全て柳に風と微笑みで躱し続けた。
飢餓感を極限まで煽る。手に入らないと分かれば分かるほど、人間はその価値を際限なく吊り上げていく。ブルーノの魂がこもった最高級品だけを手の届かない高値の象徴として君臨させ、その圧倒的なブランド力で通常の竹細工の価格の底上げを図る。彼女の老獪な商売の罠が、商人たちの首を真綿のように締め付けていた。
その熱狂の輪から一歩引いた場所で、ペドロだけが静かに腕を組んでいた。
朱塗りの杯を見つめたまま、どこか遠い未来の景色を見るような目をしている。
「…ペドロさん。どうしました」
「いや。この色を見ていたら、少し先の未来が見えたような気がしてな」
「先の未来?」
「この朱塗りの漆器がサンテロの市場に出れば、大陸中の商人が血眼になって色めき立つ。産地はルーテ村。古い交易路の奥深くに隠された、辺境の小さな村。…ハルさん。この村は、もう『忘れられた小さな村』のままではいられなくなるぞ」




