第71話「黒漆と朱」
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ブルーノが、工房の扉を開けて外に出てきた。
ただそれだけのことで、広場で作業をしていた村人たちの動きが一斉に止まった。
この無骨な職人が、自らの意志で日の当たる場所に出てくることなど、年に数えるほどしかない。作業に没頭すれば背後から話しかけられても一切無視し、食事の時間すら忘れて作業を続ける男だ。その彼が今、無言のまま、ゆっくりとした足取りで広場の中央へと歩いてくる。
その節くれだった両手の上に、一つの杯が載せられていた。
竹の根本近くの厚い部分を削り出した、掌にすっぽりと収まる小ぶりの杯。形そのものは、彼がこれまで手がけてきた精緻な竹細工と変わらない。
だが、色が、決定的に違った。
基礎になっているのは、周囲の光を全て吸い込むような、ブルーノ特有の深淵の黒漆。
そして、その深い闇色の内側に、圧倒的な朱が塗り込められていた。
マルタと私が辰砂から精製した赤い粉が、漆と完璧に溶け合い、春の陽光を弾いて生き物のように生々しく艶めいている。血よりも鮮烈で、燃え盛る炎よりも奥深い赤。黒の静寂と朱の激情が極限のバランスで同居し、見る角度によってその色彩の深みが刻一刻と変化する。
それはもはや日用品ではなく、一片の魔力すら帯びていない純然たる美術品だった。
ブルーノは沈黙のまま、その杯を私の目の前に真っ直ぐに差し出した。
「…出来たのか、ブルーノさん」
「見てくれ…どうだ?」
私は、息を詰めてその杯を受け取った。
驚くほど軽い。竹の温もりは漆の層によって完全に封じ込められ、代わりに、指先に吸い付くような冷たく滑らかな感触がある。表面には一切の塗りムラも、刷毛の跡すらない。極薄の瑠璃の膜で覆われたかのように、黒と朱の世界が完璧な平面を保っている。
足音を荒らげてマルタが飛んできた。
私の手元にある杯を見た瞬間、彼女の喉から短い呼気が漏れた。
「…」
底知れぬ知恵を持つ老婆が、完全に言葉を失っている。私がこの村に来てから、マルタが絶句する姿を見たのはこれが初めてだった。
「マルタさん?」
「黙りな。今、この色の値段を計算している」
マルタの顔から、いつもの穏やかな村の老婆の表情が完全に消え去っていた。
その濁った瞳の奥に、かつてないほど鋭利な光が宿っている。鷹でも龍でもない。誰も知らない巨大な金脈を単独で掘り当ててしまった鉱夫の、強欲で、しかし極めて冷徹な算盤を弾く目だった。
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春の市の日が、ついにやって来た。
前回の「初市」の予行演習から二ヶ月。村の景色は劇的な変貌を遂げていた。
ゴルドの号令のもとで進められた道普請により、古い交易路の三ヶ所の問題は完全に切り開かれ、大型の荷馬車が二台、余裕を持ってすれ違える幅が確保されている。ぬかるみやすい箇所には川砂利が厚く敷き詰められ、道の両脇には真っ直ぐな排水溝が掘られた。
朽ちかけていた木橋は、ブルーノが削り出した太い橋桁によって、重装の騎士が駆け抜けてもビクともしないほど頑強に架け替えられている。先日の夜襲で「置き土産」として手に入れた十頭の馬たちが土砂や木材の運搬で獅子奮迅の働きを見せ、人力だけなら半年はかかったであろう土木工事が、わずか二ヶ月で完了してしまったのだ。
そして広場の脇には、ロザが思い描いた迎賓館がその真新しい姿を現していた。
太い丸太の基礎の上に、細く割いた青竹を精緻な幾何学模様に編み込んだ壁面。入り口の柱には黒漆が塗られ、正面にはブルーノが手がけた巨大な竹細工の装飾板が威風堂々と掲げられている。内部は商人六人が足を伸ばして寝泊まりできる広さがあり、真新しい清潔な寝具と、村の甘い井戸水で淹れた薬草茶が常備されている。
辺境の寂れた村という常識を根底から覆す、洗練の極致。
ペドロの隊商が村に到着した時、先頭の荷馬車から飛び降りた痩せぎすの商人は、目の前に広がる光景を見て、信じられないものを見るように長く口笛を吹いた。
「おいおい。これはいったいどういうことだ。たった二ヶ月でここまで変わるとはな。道がまともになっただけじゃない、あんな立派な宿まで」
「村の総力ですよ」
「総力か。大した村だ、本当に」
今回の隊商は、前回とは比較にならない規模に膨れ上がっていた。
商人の数が八人。ペドロと懇意にしている六人に加え、前回の市の噂を聞きつけて強引に参加を申し出てきた二人が加わっている。護衛はヴィクトル率いる重武装の冒険者が八人。荷を積んだ馬車は九台。
二十年ぶりに開かれたかつての交易拠点が、本格的な巨大市場として息を吹き返そうとしていた。
広場の中央では、ロザが一段高い切り株に立ち、甲高い声で的確な指示を飛ばしている。
前回の混乱の経験が完全に活かされていた。
荷馬車の配置、人と馬の動線、水と食料の補給地点が緻密に計算されている。
商人たちの木台は鳥居側から時計回りに配置され、客の入り口と出口が明確に分けられた。エリオが村の記録係として台の隅に陣取り、真新しい帳簿と墨を構えて取引の全てを記録する態勢を整えている。
村人たちの動きも、前回のような、おっかなびっくりな様子は微塵もない。
ダリオが若者たちを率いて荷下ろしを手際よく仕切り、女性たちが馬の世話と水やりを引き受け、ゴルドが全体を俯瞰しながら要所で的確な声をかけて回っている。二十年のブランクを完全に埋め合わせ、村全体が一つの巨大な意思を持った生き物のように滑らかに動いていた。




