第7話「凍りつく常識」
◆◇◆◇◆
「おう、カイル。待っとったぞ」
ゴルドが村の広場でカイルたちを迎えていた。私は少し離れた作業場から、漆塗りを続けるふりをしながら遠巻きに様子を見守る。
「ゴルドのじいさん、元気そうだな。今回、やけに周辺が穏やかだな。モンスターの被害は?」
「…それがな。最近はほとんどないんだよ」
「は?」
カイルが怪訝な顔をした。無理もない。魔の森に隣接するこの村が「被害がない」と胸を張って言えた時期など、二十年前の交易路が健在だった頃以来だろう。
「ほとんどないってのは、どういうことだ。俺たちが来ない間に何があった」
「何があったというか…」
ゴルドが言い淀んだ。それから、ちらりと社殿の方角を見た。私は慌てて鳥居に視線を戻し、漆塗りに集中するふりをした。
「…まあ、積もる話は夜にしよう。長旅で疲れただろう。まず飯を食え」
「いや、先に周辺を見て回りたい。モンスターの気配がなさすぎるのが逆に不気味だ」
カイルは職業意識の高い男らしかった。飯より安全確認が先。悪くない心構えだ。
「好きにしろ。だが、あまり遠くの森には入るなよ」
「わかっている」
カイルたちが村の周辺の偵察に出ていった。私はそのまま漆塗りを続ける。ブルーノが横で黙々と鉋をかけながら、口を開いた。
「カイルと会ったことがあったか?」
「いえ、初めてです」
「そうか。奴の腕は悪くない。おかげでこの村は助かってる」
ブルーノの「悪くない」は、最上級に近い賛辞だ。この人は滅多に他人の仕事を褒めない。
◆◇◆◇◆
夕方。カイルたちが偵察から戻ってきた時、その顔つきが出発前とは明らかに違っていた。
警戒、困惑、そして『理解不能なもの』に直面した戸惑い。
「ゴルドのじいさん、聞きたいことがある」
広場の井戸端で革袋の水を飲み干しながら、カイルがひどく重い声で切り出した。ゴルドが丸太の椅子に腰を下ろす。リーナがゴルドの隣にちょこんと座っているのは、冒険者の土産話を聞きたいからだろう。
「なんだ」
「村の周囲を数キロほど索敵して回った。だが、モンスターの痕跡が全くない。足跡も糞も、爪痕もだ。まるで何かに『追い払われた』ように、一定の範囲から綺麗にいなくなっている」
「ほう」
「それだけじゃない。空気が異常に澄んでいる。魔力の淀みがない。魔の森のそばで、これは絶対に普通じゃない。うちの魔術師も『結界のようなものが張られている』と言っている。だが、教会の聖域とは全く質が違うと」
「…ふむ」
「それから…あの村の外れの『黒い門』だ。あれは何だ。見たことのない木が鬱蒼と茂っていて、その中にあの真っ黒な門がある。あそこだけ、空気の質がさらに別次元だ。まるで別の世界に一歩踏み込んだような…」
ゴルドが腕を組み、長く重い沈黙が落ちた。
それから、観念したように息を吐き出す。
「…ハルさんだ」
「は?」
「ハルさんという男がいる。数ヶ月前に、村の外れで倒れているのを拾った。どこから来たのか、何者なのかはよくわからん。だが、あいつが来てから全部変わった。あの木もあの門もあいつが建てたし、水がうまくなったのもモンスターが寄り付かなくなったのも、全部あいつの仕業だ」
カイルの眉間に、深いシワが刻まれた。
「一人の人間が? そんなことが可能なのか」
「可能かどうかは知らん。だが事実だ。…しかもな」
ゴルドがまたちらりとこちらを見た。そしてリーナの方も。
案の定、リーナが待ちきれなくなったように立ち上がり、両手を勢いよく振り回して語り始めた。
「カイルさん! この前すごかったんだよ! 魔獣が十五匹も村に来たのに、ハルさんが弓でバチーン、バチーン、バチーンって三匹倒して、残りのやつら、全部まとめてヒュウウウって鳴らしたら逃げてったの!」
カイルが息を呑んだ。
「十五体を!?一人で!?」
「射殺したのは三体だな」
ゴルドが静かに訂正した。
「残りは…なんだ、お祓いとか言っていたが、弓で奇妙な音を出したら魔獣が恐慌状態になって全部逃げた。百五十メートル先の移動目標に対し、三本の矢で三体を急所に当てた。一体も暴れなかった。即死だ」
カイルの表情が、完全に凍りついた。
彼の背筋に、冷たい汗が流れるのが見えたような気がした。冒険者として、今の話が持つ『異常性』を正確に理解し、脳内の常識を必死に再計算しているのだろう。
百五十メートル先の動く標的の急所を射抜く精度。三射連続で外さない狂気的な安定性。しかも、魔法による身体強化の補助もなしで。
「…その人に会えるか?」
「社殿にいるだろうが…」
「カイルさん、私が連れてくる!」
リーナが走り出した。ゴルドが「おい!」と呼び止める間もない。
…ああ、来ちゃうか。
私は漆塗りの刷毛をそっと置き、手についた漆を布で拭い取った。ブルーノがちらりとこちらを一瞥したが、何も言わずに自分の作業に戻った。
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