第65話「両の手に宿るもの」
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社殿に戻り、身支度を調える。
白い衣の袖をまくり上げ、襷をきつく掛け結ぶ。壁にかけてある梓弓を手に取り、白木の弦の張りを確かめる。矢筒の中身は二十本。鏑矢は抜いてある。今回は「音で追い払う」神事ではない。
そして最後に、社殿の最奥に安置してある小狐丸に手を伸ばした。
祝詞を短く口ずさむと、短刀の姿をしていた小狐丸が陽炎のように歪み、すらりとした美しい太刀へと変貌を遂げた。鞘の金具に紐を通し、腰にしっかりと佩く。弓だけで事足りればいいが、暗闇での乱戦になれば剣の間合いになる。
準備を終えて社殿を出ると、マルタが縁側に腰掛けて、薬草の束を編みながら私を待っていた。
彼女は何も言わず、私が弓を背負い、太刀を佩く姿を、底知れぬ深さを持った静かな目で見つめていた。
全てを見透かすような、老婆の目。
「ハルさん。あんたは、本当に優しい子だね」
「…急に、どうしたんですか」
「村の男たちを戦わせないのは、グラキウスが言うように『足手まといだから』だけじゃないんだろう」
足が止まった。
「あの子たちの手を、血で染めたくないんだ。人を殺す重みを、これからの村を背負う若者たちに負わせたくない。だから、自分とグラキウスだけで、全部引き受けようとしている」
「…」
「人殺しの『穢れ』を、自分たちだけで背負うつもりだ。違うかい」
私は、答えなかった。
答える必要がなかった。マルタには、最初から全てが見えていたのだ。私がどれほど平然を装って「掃除の延長」などと口にしても、この人だけは誤魔化せない。
「…怪我をしたら、すぐにうちに来な。一番効く血止めの薬と、傷を塞ぐ軟膏はたっぷり用意しておくよ」
「ありがとうございます、マルタさん」
◆◇◆◇◆
日が落ちた。
夜の帳が下りたルーテ村は、死んだように静まり返っていた。
集会所には村の女性と子供たちが息を潜め、分厚い木の扉は内側から完全に封鎖されている。ゴルド率いる男衆は広場の周囲の影に身を潜めているが、松明の火は一切ない。家々の窓からも灯りは漏れず、村全体が深い闇の中に沈み込んでいる。
春の夜風が、かすかに竹林を揺らす音だけが響いていた。
漆黒の鳥居の前に、二つの影が立っていた。
私とグラキウス。
私は左手に梓弓を握り、右手を矢筒の縁に添えている。
グラキウスは、普段羽織っている古ぼけた外套を脱ぎ捨て、身軽な革鎧姿になっていた。腰に佩いた白翼の剣の柄に、右手を添えている。完全に完治した左腕が、夜気の中で静かに力を蓄えているのが分かる。
「ハル殿。一つだけ、確認しておく」
グラキウスが、前を見たまま低い声で言った。
「はい」
「殺すか」
短い問い。だが、その一言に込められた質量は計り知れない。
「…できるだけ、殺さない方向で。四肢を射抜いて戦闘不能にします。ただし、こちらの命に関わる場合や、村人への被害が予想される場合は躊躇しません」
「了解した。峰打ちと脅しによる無力化を基本にする。だが、頭目だけは確実に潰す。頭を潰せば、烏合の衆は自然に散る」
「お願いします」
グラキウスが、ゆっくりと剣を抜いた。
鞘走る音が、夜の空気を鋭く切り裂く。月光を吸い込んだ白翼の刃が、冷たい銀色の光の筋となって闇の中に浮かび上がった。
グラキウスは、左手で柄の下端を包み込むように握り、右手で鍔元のすぐ下を握った。
両手持ちの構え。
彼が両手で剣を握る姿を見るのは、これが初めてだった。
構えを取った瞬間、グラキウスの周囲の空気が、物理的に凍りついたかのように錯覚した。
片手で杖のように剣を扱っていた時の飄々とした気配は完全に消え失せ、重心が深く沈み込み、全身の筋肉と骨格が、一個の完璧な武器として極限まで凝縮されている。全方位に対して、一瞬の遅滞もなく攻撃と防御の転換が可能な、武の到達点。
これほどの重圧を放つ人間が、ルーテ村の片隅で静かに隠居していたという事実に、私は今さらながらに戦慄を覚えた。
「来るぞ」
グラキウスの鋭い声。
古い交易路の方角から、枯れ枝を踏む微かな音が聞こえ始めた。松明の光はない。闇に紛れ、足音を殺しながら、確実に村へと接近してくる者たち。
「二十…いや、三十だ。徒歩の連中が二十。その背後に騎馬が十。全員が交易路の西側から一塊になって来ている。分散も包囲もしていない。正面突撃だ。この村に戦える力などないと判断してのことか、正確な戦力を把握できていないからだろう」
「…三十人もいて、包囲すらしないのですか」
「戦力の一極集中。ある意味、戦術としては間違っていない。頭目は、おそらく先頭で一番大声を出している男だろう。自分が真っ先に突っ込んでいかなければ気が済まない手合い。…ある意味、分かりやすくて助かるがな」
私は、梓弓に静かに矢を番えた。
弦が微かに軋む。暗闇の中でも、魔物の放つ『穢れ』とは違う、人間が発するどす黒い『悪意と欲望の気配』が、泥のようにじわじわと村の輪郭を包み込みつつあるのが、肌を通してはっきりと読み取れた。
「…では、始めましょうか」
「ああ。徹底的な、掃除の時間だ」
グラキウスが、夜の闇に溶け込むような獰猛な笑みを浮かべた。
月が雲に隠れ、村が完全な暗黒に包まれた瞬間。
招かれざる客たちとの、静かで凄惨な戦いの幕が上がった。




