第63話「朱と足音」
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ルーテ村に、確かな春の匂いが満ち始めていた。
温暖なこの地において、冬の間に数日だけ見られた朝の霜はすっかり姿を消し、土からは水分を含んだ豊かな香りが立ち上っている。放牧地の緑は日に日にその彩度を増し、東の山脈の頂にわずかに残っていた薄い雪化粧も、いつの間にか青空に溶けて消えていた。
村は、かつてないほどの熱を帯びて動いていた。
古い交易路の道普請は、ゴルドの号令のもと、村の男衆が総出で鍬や斧を振るっている。グラキウスが木の枝で地面に描いた緻密な設計図に沿って、荷馬車がすれ違えない三ヶ所の木を根こそぎ伐採し、脇に深い排水溝を掘り、ぬかるみやすい箇所には川から運んだ石と砂利を敷き詰めて踏み固める。ブルーノは工房にこもりきりで、朽ちかけていた木橋を架け替えるための頑強な橋桁を削り出していた。
ロザが頭の中に描き出した迎賓用宿舎の姿も、広場の脇で少しずつ現実の形を見せ始めている。
太い丸太の基礎の上に、贅沢な量の割り竹を精緻に編み込んだ壁組みが立ち上がりつつあった。ブルーノが手がける予定の、壁面を飾る巨大な竹細工の装飾も設計が進んでいるという。まだ骨組みの段階だが、完成すれば、辺境の寂れた村という常識を根底から覆す、洗練された趣の建物になることは誰の目にも明らかだった。
そして、社殿の裏手。
マルタと私は、辰砂の精製という極めて繊細な作業に没頭していた。
硬い鉱石を乳鉢で気の遠くなるような時間をかけて粉末に挽き、それを水に溶いて不純物を沈殿させる。上澄みだけを別の素焼きの平皿に慎重に移し替え、春の陽光に当ててゆっくりと水分を飛ばす。温度と水分の管理が厳格で、何度も色がくすむ失敗を繰り返していたが…今、マルタの手元にある平皿の底には、はっきりとした変化が起きていた。
「…もう少し。あと少しで安定するね」
マルタが、シワの刻まれた指先で平皿の底にこびりついた粉をほんのわずかにつまみ上げた。
春の陽光に透かされたその粉は、単なる赤い石の粉ではない。血よりも鮮烈で、炎よりも深く、見る者の目を焼き付けるような圧倒的な『朱』。
黒漆しか存在しなかったこの村に、いや、おそらくこの大陸全体においても、かつてない価値を生み出す極彩色の顔料の誕生が、目前に迫っていた。マルタの濁った瞳が、今は獲物を狙う肉食獣のように鋭く光っている。
村が変わっていく。確かな富と、新しい知識を吸収しながら。
それが、ただひたすらに前向きで喜ばしいことだと、そう思っていた矢先のことだった。
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異変を察知したのは、グラキウスだった。
その日の昼下がり。グラキウスは日課の「散歩」から戻ってきた。左腕が回復して以来、彼は村の外縁部、神域の境界付近を大きく周回するように歩くことを日課としている。地形の把握と、気配の確認。長年染み付いた習性なのだろう。
広場に姿を現したグラキウスの歩みには、いつもの飄々(ひょうひょう)とした軽やかさが微塵もなかった。
足音がない。
土を蹴る音を完全に殺し、重心を低く保ったまま滑るように移動する、戦場の歩法。その顔つきは、日向ぼっこを好む好々爺のものから、鋼のように冷徹な武人のそれへと完全に切り替わっていた。
「ハル殿。少し話がある」
社殿の前で、新しい竹箒の穂先を編んでいた私の隣に、グラキウスが音もなく腰を下ろした。声のトーンが、異常に低い。
「交易路の西寄り、村から三キロメートルほどの地点。森の縁に沿って、複数の足跡があった。ペドロの荷馬車の轍ではない。人間の、それも底の硬い軍靴や革ブーツの足跡が入り乱れている。数は少なくとも二十以上。そして、野営の跡があった。煙が出ないように枯れ枝を避け、焚き火を隠すように土と灰を被せてあったが、手を入れるとまだ微かに温かかった」
私は、竹を割く手をピタリと止めた。
春の温かい風が、急に冷え込んだように感じた。
「…野盗…ですか」
「おそらくな。先日のペドロの隊商が古い交易路を往復したのは、街道筋の街や宿場では嫌でも目立っただろう。七台の荷馬車と、重装備の冒険者八人。あれだけの規模の隊商がわざわざ見捨てられた辺境の村に向かったとなれば、その先に『途方もなく金になる何か』があると考える鼻の利く輩が出てくるのは、火を見るより明らかだ。そして、護衛の冒険者が帰った今、一番手薄に見えるというわけだな」
グラキウスの分析は、氷のように冷たく、そして完璧に論理的だった。富の匂いは、商人だけでなく、底辺の悪意をも呼び寄せる。
「いつ、来ると思いますか」
「今夜か、明日の夜。盗賊は暗闇に紛れる夜襲を好む。昼間のうちに村の規模と守りの手薄さを確認して、夜の深い時間に一気に来る。…わしが見つけた野営跡の位置と、火の始末の鮮度からして、すでに村の外縁からの下見を済ませている可能性が高い」
「グラキウスさん。ゴルドさんに伝えますか」
「伝える…が」
グラキウスの瞳の奥で、鋭い刃が閃いた。
「村人を戦わせるつもりはない」
その声は低く、しかし地の底から響くように揺るぎなかった。
「素人が農具や刃物を持って盗賊の群れに突っ込めば、確実に死人が出る。ゴルドの爺さんもダリオもロザも、戦場で命のやり取りをする訓練を受けていない。あの連中を矢面の戦場に立たせれば、わしらの足手まといになるだけではなく、無惨に殺されるか、あるいは自分の手で人を殺すことになる。どちらも、絶対にあってはならん」
「…同感です」
私の答えは短かったが、その中に込めた思いは岩のように重かった。
人を殺すという行為が、その人間の魂にどれほどの『穢れ』をもたらすか。私は前世で、骨の髄まで知っている。
治承四年の冬、業火に包まれた南都。生き延びるために平氏の武者の首に刃を突き立てた時、両手にこびりついた生温かい血の感触と、肉が焼ける悪臭。あの夜の記憶は、何度禊を重ねても完全に消え去ることはない。
あんな感覚を、ゴルドにも、ダリオにも、この村の誰にも、絶対に味わわせるわけにはいかない。
「わしとハル殿、二人でやる。異論はないな」
「ありません。…相手は、何人くらいだと思いますか」
「足跡の錯綜具合と、野営の規模から見て、三十人前後。素人の烏合の衆ではなく、ある程度組織だった集団だ。ただし、冒険者崩れや脱走兵が混ざっていたとしても、せいぜい下級の連中だろう。本物の実力者は、盗賊などに身を落とさん」
「三十人」
「二人で十分だ。わしが前に出る。あんたは弓で後方から援護してくれ。十五人ずつ分担する計算だな」
「計算の問題ではないと思うのですが」
「冗談ではないのだがな」
グラキウスの口の端がわずかに歪んだが、その目に笑みは全くなかった。




