第57話「マルタの野心」
第57話「マルタの野心」
◆◇◆◇◆
ペドロとの商談が一段落して村人たちが散った後、私はマルタを社殿の前に呼んだ。
「マルタさん。一つ、ご提案があるのですが」
「何だい、改まって」
「辰砂のことです」
マルタの目が、一瞬で鋭く細められた。辰砂はこの村の最古の特産品であり、マルタが採取と管理を一手に引き受けている。その辰砂に関する話となれば、彼女が商売人として身構えるのは当然だ。
「今、辰砂は鉱石のままペドロさんに売っていますよね」
「そうだね。ペドロに原石を渡して、街の加工業者が粉にしたり、顔料にしたりしている。うちは原石しか出せないからね」
「もし、この村で辰砂から『朱』の顔料を直接精製できたら、どうなると思いますか」
マルタの細い目が、見開かれた。鷹から龍へと変わるような、強烈な野心の光。
「…朱。あの燃えるような赤い粉かい。あれは、金持ちの絵師が使う最高級の顔料だ。原石の何倍、いや何十倍もの値がつく。街の加工業者が製法を独占している品でもある。…まさか、ハルさん、あんた精製の方法を知っているのかい」
「故郷で学びました。辰砂を細かく砕いて水と混ぜ、不純物を沈殿させ、上澄みを取って乾燥させる。基本の原理はそれだけですが、温度と時間の管理が重要です。何度か試行錯誤は必要ですが、できるはずです」
マルタがしばらく無言で私を凝視していた。それから、ゆっくりと口の端を吊り上げた。
「…ハルさん。あんた、本当に何者なんだい。得体の知れない神主で、竹こり人夫で、文字の先生で、今度は最高級顔料の職人か」
「ただの神主ですよ。故郷の神社で、塗料の補修のために少し見聞きしただけです」
「少し見聞きしただけで朱の精製ができるなら、あんたの故郷はとんでもない化け物の国だね。…まあいい。やろう。原石は死ぬほどたっぷりある。試す価値は十分にある」
「ありがとうございます。それと、もし綺麗な朱ができたら、ブルーノさんに漆器に塗ってもらいたいのですが」
「朱塗りの漆器…」
マルタの目が、今度こそ完全に利益を計算する商人のそれになった。凄まじい速度で算盤が弾かれる音が、幻聴として聞こえそうだ。
「黒漆の艶に、朱の赤。それが組み合わさったら…ペドロが腰を抜かすぞ。街の貴族どころか、王都の宮殿でも通用する逸品になる。しかも、原料の辰砂も漆も、全てこの村にある。仕入れのコストがゼロだ」
「落ち着いてください、マルタさん。まだ精製の第一段階すら成功していないので」
「成功させるんだよ。何が何でも。ハルさん、明日からやるよ。いいね?」
「…はい」
断れる雰囲気ではなかった。マルタの目が黄金色に光っている時に逆らうのは、村長のゴルドですら不可能なのだ。
◆◇◆◇◆
その晩、ゴルドの家の前でゴルドとグラキウスが、いつものように切り株に腰を下ろして麦酒を飲んでいた。私も誘われて、空いている丸太の上に腰を下ろす。
冬の夜空に、星が凍りついたように瞬いている。焚き火はないが、ゴルドの家の窓から漏れる暖炉の灯りが、三人の男たちの横顔を静かに橙色に照らし出していた。
「…年が明けてから、この村は変わり始めとるな」
ゴルドが木杯を見つめたまま、ぽつりと言った。
「ペドロが商人を連れてくる。市が立つ。道を直す必要がある。宿泊場所を作る必要がある。ロザが仕切る。マルタが朱を作ると息巻いている。…以前は、竹が異常に増えたと怒鳴っていただけだったのに」
「竹のことは、今でも毎朝気にして見に行っていらっしゃるでしょう」
「気にしとる。大人しすぎて逆に不安だからな」
グラキウスが木杯を傾けながら、喉の奥で低く笑った。
「ゴルド。あんたの村は、強い村だ。変化を恐れず、むしろ楽しんでいる者が多い。ロザ殿のような人材が隠れていたのも、こういう変化がなければ一生分からなかったことだろう」
「…あいつが、あんなに見事に仕切れるとは思わなかった。長年、村長をやってきて、足元の人材を見落としていたとはな」
「見落としていたのではない。機会がなかっただけだ。二十年間、人が来ない村で仕切る力を発揮する場面がなかった。それだけのことだ」
ゴルドが黙って、苦い麦酒を啜った。
「ハルさんよ」
「はい」
「ペドロの隊商が来るまでに、いろいろ準備せねばならんが、あんたにも一つ頼みたいことがある」
「何でしょう」
「あの鳥居の前の広場。商人たちが来た時に、あそこを市場にしたいんだが…あの場所は、あんたにとって大事な場所だろう。勝手に使っていいものか」
私は少し考えた。鳥居の前の広場は、毎朝の掃き掃除と祝詞を行う場所だ。神域の中心に最も近い、清浄な空間。そこを市場にするということは、見知らぬ大勢の人が土足で出入りし、金銭が飛び交う欲望の場になるということだ。
だが…。
「構いませんよ、ゴルドさん。人が集まって賑やかになれば、神域の気はむしろ活気づいて安定します。以前もお話しましたが、神様は静かで寂しいより、人が集まって賑やかな方がお好きですから」
「…本当にそうなのか」
「ええ。本当に」
ゴルドが「ふん」と鼻を鳴らした。
「あんたの神様も、変わった神様だな」
「ソル・デウス様ほど厳格な教義はないですからね。もう少し、おおらかなんですよ」
グラキウスが木杯の底を見つめながら、微かに笑った。何を思ったのかは聞かなかった。
冷たい冬の風が、三人の間を抜けていった。
年が明けた。村が本格的に動き始めている。
ペドロの隊商が来るまで、あと一月半ほど。それまでにやるべきことは山のようにあるが、今夜はまだ麦酒が残っている。明日のことは明日考えよう。
「…おかわり、いいですか」
「飲みすぎるなよ、ハルさん。明日も朝が早いだろう」
「掃除は昼からでもできますから」
「神職のくせに怠惰なことを言うな」
「善処します…」
満天の星空の下で、三人の男たちの笑い声が、冬の静寂の中に小さく響いた。




